「毒消し売り」の旅 (秘められた旅路より②)
上記の写真は、新潟市の写真家小林新一氏が昭和30年代に撮ったもの。まだデビュー前の写真で、「報じられなかった写真」という書籍から引用させていただきました。新潟市内、大和百貨店前を歩く売り子たちです。
毒消し売りの旅(二回目)、「秘められた旅路」のつづきとなります。
「毒消し」を初めて作ったところ
岡田季秋は角田浜の村に向かうが、「毒消し」を最初の場所は、角田の村のはじにある「称名寺」ということを小林開易堂で知り、そちらにタクシーで向かいます。
この「称名寺」というお寺は、岡田氏が訪れた時はどうも角田に引っ越していたようで、元々は「|角海«かくみ»浜」という「角田浜」よりも、かなり南に下さった集落であり、この海沿いの村から毒消売りが始まります。しかもこのお寺がどうして、丸薬を作ったのか…。
「江戸時代から始まったんですよ。想像できないでしょうが、実は、ここは越後平野という穀倉地帯の真ん中にありながら、昔は米が全く取れなかったところなんですよ」
という意外な事実を知る。人間の知恵のあらわれだけでなく、風土による条件でこの生業が始まった。慶長年間にこの寺で薬が作られたことになっているが、その効能が大きく、村でこの製法を研究して作り始めた。全盛期は大正時代で、この集落だけでも32万円(おそらく年間)の売上げということで、今の価値に置き換えたら、「億」の単位。農作物のできない閑散期の出稼ぎのような形で売り歩いたとしても、男性は出稼ぎに行かず、女性だけが出稼ぎに行くには何かしらの理由があっただろう。男尊女卑の文化が強すぎた?!とか、疑問は増すばかり…。
「おばさん、行商している人に逢わせてください」
<この村にどうして毒消し売りが生まれ、それが消滅しないのか?>それが知りたかった。
ということで、角田浜の隣の越前浜にて、毒消し売りの一人の中年のご婦人を紹介してもらいます。
と岡田氏は当時の毒消し売りの現状を少しずつ知るようになります。
別の本によれば、移動百貨店どころか、北関東の村々をお客さんにもつ毒消し売りは秋の収穫の時期には、田畑の収穫を手伝いや家の中の雑多なことまでしてあげて、農家に泊めてもらい、次の場所に赴く、とのこと。もはや、商売だけの付き合いではない、毎年、越後から毒消し売りが来るのを楽しみにしていた、とまであります。
「他人の飯を食わない娘は役に立たねえ、といわれ、裕福な家の娘も、少し前までは、嫁入り前に一度は毒消し売りになって旅立ったのである。最近は中学卒業の際、職業選びが行われ、先生があまりすすめない。それで若い者がほとんどいなくなったという」
とこれを綴りながら、1960年の記録であるが、これを「60年も昔の話」と考えるか、「それから60年しか経っていない」と考えるか…。
越後なのに、「越前浜」とは…
越前は今の石川県にあたるが、この越前浜は、その名の通り、越前の国から移住してきた漁師がひそかに住み着いたところ。
塩は明治43年に専売制度になる。そこまで考えたとき、岡田氏はこの村の女たちが、男たちに代わって、あえて農繁期にも薬売りに出たということを納得し始めていたと。
同じ越後でも、出稼ぎが特殊な形を取った理由がそこにあった。
角田浜、角海浜、越前浜、五ヶ浜とこれらの浜沿いの村・集落から、毒消し売りの行商が広がっていったのだが、これらの村は、沿岸沿いの砂地でもあり、お米が取れた地域ではなかった。
角海浜が毒消し売りの発祥の村であり、江戸時代には、北前船の寄港地としても名を連ねていた。時代が変わり、交通網・産業構造も変わり、生業も変わる中で、なんとかして、食べていく手段を見つけるべく、現れた「毒消し売り」。今はもう、この角海浜も廃村になり、「毒消し売り」もいなくなりました…。
改めて「越後女の哀歓」
この岡田喜秋の記録を読みながら、昭和30,40年代まで続いたであろうこの毒消し売りの話に衝撃を受けました。静岡県出身者としては、私の母が伊豆の漁村出身でこれはこれで大変な生活をしていたのですが、上越、東北地方の出稼ぎ、集団就職のような話は静岡ではやはり他の地域(クニ)の話。東海道があり、人もモノも往来が多い地域では考えられないことです。
次回は、「堕落論」を書いた新潟出身の坂口安吾も毒消し売りを残した記録を残しているので、それを綴ってみたいと思います。(つづく)