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西伊豆の旅 ようこそ深〜い「戸田」へ(1日目前半)

伊豆半島の旅、東伊豆は行ったことがあっても、西伊豆は行ったことない方も多いのでは…。2005年に合併されるまでは「戸田へだ村」と呼ばれ、歴史も深く、海も深く、深い西伊豆の旅にお誘いします!

いざ、戸田村へ!(駿豆線)

伊豆の西海岸に行くのは、大学の時以来。サバイバルなキャンプ場で、魚を釣って食べて、野菜も肉も現地調達で一泊しました。その時も沼津から船でアプローチしたので、今回も船でと思っていましたが、もう10年前に定期便は廃止orz…(現地で↓3日間の記念運行がされているのを発見。これで行きたかった。)

大型遊覧船「ちどり」

ということで、「戸田村(親しみを込めて)」へ行くには、公共機関では、修善寺まで、伊豆箱根鉄道(駿豆すんず線)で終点の修善寺まで、そこからバスで、1時間弱かけて行くルートしかありません。

戸田村(現在は沼津市戸田)は沼津市街地からだいぶ南 電車・バス(赤)、船便は廃止(緑) 
伊豆箱根鉄道 駿豆線 三島駅から出発!

愛称「いずっぱこ」と呼ばれている伊豆箱根鉄道駿豆線は、遡れば、明治の後期から走っており、100年以上の歴史がある路線。中伊豆の平坦な平野をのんびり修善寺まで20km弱を40分弱で走ります。絶景スポットがあるわけでもなく、通勤通学に使われる地方中規模都市に至る平凡な路線と言えば、平凡な路線。

いたって平凡な改札
修善寺行き 長年の主力車輌3000形 ヘッドマークは8月の「三嶋大社のお祭り」
ホームの植え込みの石は富士山からの溶岩(安山岩)
車内も平凡なボックスシート

電車が出発すると、東海道線を右に眺め、左に大きくカーブしながら、住宅地を行きます。どこにでもあるJR本線との別れですが、この区間の場合はここは平凡じゃないのです!
遡ること、東海道本線開通の時。全線がつながった当初は天下の嶮、箱根の北側を迂回する現御殿場線ルート。下図の左上に「みしま駅」があります。御殿場、裾野、沼津という富士の裾野を下る路線の計画上、郊外に三島駅を作るしかありませんでした。

三嶋神社から南に広がる市街地が旧東海道の宿場町 そこを外して駿豆線が敷かれる(明治43年)

昭和9年、丹那トンネル貫通後、市街地の北側に悲願の三島駅が新設。箱根を迂回した東海道本線は、御殿場線に名称変更。旧三島駅は「下土狩しもとがり駅」に改名。駿豆線も現三島駅に接続するのでした。そのため、ここで、市街地を周りこむようにカーブで、現三島駅と繋ぐのでした。

昭和27年の地形図には、下土狩駅からの盛土の名残が見える
下土狩駅から新幹線の高架橋をくぐる線路跡がはっきり分かる(国土地理院HPより 1970年代)

ということで、歴史を感じさせる左カーブ!と感じるのは、テツ友さんだけかもしれませんが(^^; そして、開業当初から変わらない三島広小路駅着。

「三島広小路駅」祭りの時は、大賑わいの駅
現在は西武資本の鉄道なんで、西武の車両も走ってます!

三島は富士山の伏流水が湧き出る水の街。市街地のあたりは、そこかしこで、湧水が見られ、「いずっぱこ」からも、よく見てると何か所か湧水から出ている小川は見ることができます。

横浜ゴムの工場脇 清流が流れる
三島市街地を抜け、大場川通過 箱根の西麓を流れる 大きな鯉がよく泳いでます
中伊豆の田園風景 住宅地は増えましたが、のどかな景色
ビニルハウスが増えてきましたがこちらは、いちご農園 「江間」といういちごの名産地

電車は韮山を通過。右手には狩野川かのがわ台風(1958年)で有名になってしまった狩野川が流れ、左手には最近世界遺産になりました「韮山反射炉にらやまはんしゃろ」があります。残念ながら、車内からはほとんど見ることが出来ないです。韮山反射炉は、黒船来航の時に、江戸の国防に備えて、幕府が急きょ大砲の準備をしようと、江川太郎左衛門英龍ひでたつに命じて、造らせたもの。研究の末、オランダ語の文献だけで、最新の反射炉を作ってしまうんですから凄いものです。

反射炉は右奥にあるはず… 日本で当時の反射炉で現存するものはここだけ
伊豆長岡 温泉地ですね

伊豆長岡駅の西側に温泉場、さらに奥には「狩野川放水路」が、山をくり抜いて、駿河湾に抜けていきます。めったに使われることがないと昔は思ってましたが、この数年の巨大台風で二回も使い、改めて重要な放水路です。

城山 ロッククライミングで知られています

城山からもう少し進むと、90年代までは「大仁鉱山」の廃墟の建物が見えました。土肥金山は有名ですが、ここを通るたびに、伊豆は鉱山の半島だと感じ、歴史を実感できる場所でもありました。今は、電車が少しだけ、人工的な遺構があるのが確認できるくらいです。

伊豆ジオ遺産サイトより
大仁駅からくねくねと曲がり、牧之郷を通過して、終点修善寺
右側は熱海で下田行と修善寺行に分かれる「踊り子」号

東海バスで峠を越えて…(戸田峠)

ここから、1時間弱、東海バスに揺られて戸田港に向かいます。伊豆半島のバスと言えば、東海バス!

南伊豆や西伊豆方面の旅はもう東海バスなしには語れない
修善寺駅前 それにしても7月の3連休のど真ん中でこんな閑散としていてい大丈夫なのかい!?
青い空に映えるオレンジ&クリーム色! 

修善寺温泉の中心は駅から3kmほど離れており、このバスも修善寺温泉を経由して、山越えをしていきます。

乗客はまばら… 狩野川を渡ります
狩野川の中流域 流量は豊富 台風時は怖いほどの流量になるのでしょう
修善寺温泉バスのりばにてUターン

しばらく走ると、「虹の郷」にも立ち寄ります。こちらには、イギリス製の機関車ほか複数台が公園鉄道として走っています。15インチ(381mm)のナローゲージ、遊園地電車より本格的!?で、中々の売り物になっています。

虹の郷HPより
虹の郷を過ぎると一気に山の中
対向車は十分通れる道ですが、かなりの急勾配
後ろを見れば、中伊豆の山々晴れていれば富士山も
県道18号 修善寺戸田線 はそろそろ最高地点 山深く、空紺碧
戸田峠を通過 ここを左に折れると、土肥・達磨山方面
ちらちらと西伊豆の海側が見えてきましたが、山は荒々しい
おおぉぉ!! ついに見えました「戸田村」!!(痛く感動)

戸田峠を越えて、あそこまで降りていくということで…、高低差600m強。

ようやく開けてきました 山を下り、戸田港まで 十数分
歓迎 かにの街 戸田温泉
戸田港までもう一息 

終点間際に、前に座っていた高校生が降り、スポーツウェアには地元の進学校の排球部の名が…。なんとここまでバスで通っているのかと、door-to- doorで2時間はかかるでしょう。頑張れ!高校生!!

峠を越えるバスの旅はここまで

戸田造船郷土資料博物館へ

到着早々、移動手段が限られていますが、地元にわずかしかないタクシーを捕まえて、郷土資料館を訪ねます。

海とは思えない穏やかさ
戸田の港をぐるっと半周して、資料館へ 行く道は海水浴客の車で大渋滞…

さて、この資料館は造船郷土資料館となっていて、この戸田は「日本近代造船発祥の地」と言っても誰も文句を言わない土地なのでした。簡単な経緯は以下の通り。
日露条約を結ぶために日本に来ていたロシアの軍艦ディアナ号が、安政の大地震(1854年)に津波の害を受け破損、この戸田に修理のために向かう途中、さらに強風で駿河湾の富士市の沖に流され沈没。指揮していたプチャーチン提督ほか500名余りがこの戸田に一時寄留することになり、提督の要望で、日本の船大工を集め、ロシア人の指揮のもと、西洋式の帆船を作ることに。設計から完成までに100日で造り上げ、この船を「ヘダ号」と名付けました。この船と他の商船にも乗りながら、ロシア乗組員たち全員をロシアに送り出したのでした。
駿河湾に沈み、未だにどこにあるか分からないディアナ号ですが、そのいかりは回収され、この資料館の入り口に置いてあるのでした。

巨大! 隣の階段から、パッと見たら錨と認識できない錨

館内には「ヘダ号」の模型を中心に貴重な資料と、日露友好の歴史が綴られています。この資料館建設の時(昭和44年)にも、ロシア大使から500万円の寄付の贈呈も。

ヘダ号 1/10縮尺 全長は24.57m 二本のマスト およそ50人乗り 
破損した段階で持ち出したのでしょうか プチャーチンが使っていた品々も展示
日本滞在時の提督 スマートな風貌
これまた随分違うテイスト… ペリーと同じ!?

明治20年には、提督の娘が、戸田村を訪問し、交流したそうです。

来村後、3年で亡くなる時にも戸田村への寄付の遺言を残す

そして、ヘダ号の建造の監督をしたのは、またしても江川英龍。残念ながら、ヘダ号完成の1か月前に死去。それにしてもオールマイティな代官!

伊豆だけでなく、駿豆甲武五カ国を治めており、そこらの藩主より権勢があった

北海道でもない伊豆の片田舎にこんな日露の交流のエピソードがあり、昔は交流のイベントも開いていたようです。「今は時が時なので、残念ですね」とタクシーの運転手さんも申しておりました…。

日露合作の掛け軸 絵心あるロシア人乗組員が彩色したそうです

ここでも平和を祈念しつつ、併設の博物館へ向かいます。(後半へつづく)

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