番外編 新年を迎えて
新年おめでとうございます。
今更ながらですが、松の内、ギリギリセーフということで。
正直に申し上げると、新年になったタイミングで、今年の抱負や決意を考えるのがなぜだか、こそばゆい性です。しないで済むならしたくない。
同じようなことで、小さい頃から
「春になるとワクワクするね♪」と大人に話しかけられては、
「え!? どこが?」と真顔で答えていました。(今も変わらず…)
多分、小さい頃から同じ思いが、ずっと自分の底辺を流れている気がします。
志向として、
変化がキライ・変化が苦手。きりがキライ・切り替えが苦手。季節によって強制的にタイミングを変えられる感覚になじめない…。
物事が次々にノンストップで展開し変化に巻き込まれていくよりも、同じものがじっくりと熟成する様子を体験する方が面白いと感じます。
が、その気持ちに相反するかのように、現実世界では、『なかなかディープですよね…』と思うようなことが次々と降りかかり、「ひぇ~!」「オォォ…」が多いのが我が日常。
以前、友達から「そばにいたら、いつも何かが巻き起こってる。『ハプニング体質』だよね。。。」と太鼓判をおされたこともありますが、その通りかも……。それで尚更、「改めて何かしでかすような決心はいたしませんので、日々粛々と、平穏無事で…」と考えるのかもしれません。
しかし、この歳になり、生まれて初めて雪の中でお正月を迎え、雪っ原を散歩しながら、一つのフレーズが頭の中をよぎっていきました。
「『ねばならない』からの脱却」
するからには結果を残さねばならない
これだけ時間をかけたから、できるようにならねばならない
性として、こうであらねばならない
この年齢、こうせねばならない
この役割、こうすべきだよね・・・・・・・・
パッと考えただけでも、日々様々なことが
「~たるもの、こうであらねばならない」の呪縛にがんじがらめ。
自分が主体であるはずなのに、
「ねばならない」というイメージを先行させて、「なぜ?」という疑問を持たないまま、自分で自分を縛り付けていないかと。
ただ、「ねばならない」という基準は楽でもあるのです。
その言葉で、自分を正当化する視点を手に入れることができることは体験としても理解しています。
ですが、今は、なぜかザワッとするものを感じます。
「ねばならない」を手放して、
自分が気づき、自分が考え、自分が選んで、自分で決めて、自分が行動して、もし失敗したら、自分のケツは自分で拭く覚悟。
「心が自由である」ってそういうものかなと思って。
散歩中、ともすれば、前に前にと、自分の意識が向いていきがちですが、最近、散歩をしながら、後ろを振り返ると違う景色が見えました。
今まで気付き落としていた視点に気づいたような気がしました。
後ろもいい、
前もいい、
後ろ前向きだっていい、
どこを向いて、何を感じるかも自分次第。
心軽やかに2021年を過ごしていきたいと思います。
今年もどうぞよろしくお願いします。