細分化すると、人間の感情なんて良いか、悪いかのどっちかに分けられる。
気持ちいいか、痛いか、人間結局どっちかを指針に行動を起こすのだという結論になった、3時間の飲み会だった。
その中でも、今まで知らない気持ちいいを知ってしまうと人間はそれをまた感じたくてもっともっととなるし、
痛みを感じた時は、もう同じ痛みを感じるのは真平だからその過ちを回避しようとする。
その繰り返しが人生なんじゃないかと思う。
大人になると臆病になる。
なぜなら痛みを伴わずに物事を進め結果を出せる方法を知っていくからだ、
子供の時はそんな器用で周りくどく、気持ち悪いやり方を知らない。
純粋に真っ直ぐに、裸一貫でその物事に対してぶつかっていく。
それにはリスクが伴うが、気持ちがいいほど相手とぶつかる。
大人になると、ぶつかることをさけるようになり、気持ち悪いほどうわべのつながりを大切にする。
だが、それが必要なのだ。
必要だから大人になる段階でその気持ち悪さを無自覚的に受け入れて、気付くとそれが自分の当たり前になっている。
始まりと、結果を見てみるとそのギャップに驚かされる。
なりたくなかったダサい大人の言葉を使ってたり、そういう立場になっていたりする。
なぜそうなるのか?
実は自分が思ってたダサい大人は、そもそもダサくなかったのではないか、
何も知らない幼い自分の強く、傲慢なエゴ、客観的に自分の立ち位置が見えてない幼稚な考えから出た偏見かもしれない。
実はそういうダサい大人だと見てた人は、見えない戦いを繰り広げてて、常に生死の綱渡りをしてた人でも、表面的に負けを演じ勝負には勝ってたかもしれない。
それぞれの真実は分からないが、大人になるということは目ではみえない戦いが増えるということであり、人間は死ぬまで戦っていくいくことだと思う。
大人になると戦っていることに、意識的か無意識的かで気付く。
だからなるべく戦わないように選択する。
戦うということはとても疲れるし、安心して送る日々の生活には全く邪魔である。
そんな状態でいたい人間は少ないと思う。
だが、平安の中にいる人間に成長はない。
チャレンジや混沌の中でしか人は成長しない。
社会が変化し続ける中で、自分が変わらないことは落ち目になっていくことであるこの社会は、チャレンジしていかなければ今の位置も守れない。
話は戻るが、チャレンジするということは不安や恐怖が伴う。
それはつまり”痛い”ということになる。
人間痛いことはやりたくない。
なぜなら痛いから。
説明になってるようでなってないけど、本能的に考えると痛いからやりたくないということになる。
きっと気持ちいいこと本能的にまたやりたくなる、続けることで満たされていきその満足感を味わいたいから。
人間やりたくないことをやるということを頑張るか、気持ちいいやりたいことを見つけてそれをやっていくかなにかをチャレンジするきっかけは色々あると思う。
1番勿体無いと思うのは、やりたいこと、やったほうがいいことが明確化してるのに行動を起こさないこと。
これをやれば他人からこう思われるんじゃないか、評価されないとやる意味がないんじゃないか。
不安に飲まれそうになるが、やってみたほうがいい。
なぜなら、人間は時間をとることが1番のリスクだからだ。
格差社会などというが平等なものといえば唯一、時間だといえる。
時間はお金に変えられ、なんとなく過ごせば過ぎていく、だがやりたいことがあれば押し潰されそうなほどの貴重な資源になっていく。
そして過ぎ去ってしまえば一生取り返すことができない唯一無二のものだ。
人間永遠に生きれれば争いは起こらないかもしれない、
その代わり社会が発展することもなかったかもしれない。
だけどそんな中でも僕たちの行動原理になってるエネルギーは”気持ちいい”か”痛い”かになってくる。
どちらがいいということはない。
ただ、またあの気持ち良さを経験するためにはなんでもやるとか、あんなトラウマを一生経験したくないと思えば人生をかけてそういう生き方をできるのが人間だし、無自覚にそうしてる人間だから今まで生き残れてこれたのだろう。
社会は変わるが人間の根本的な欲望は変わらないみたいだ、きっとこの星の寿命がくればそこが人間にとって大きなターニングポイントになるだろう。
今はまだそんな心配はないみたいだが、日本の夏が暑すぎになってるみたいだ、僕は寒いのが苦手だからその分冬が暖かくなるならそれでもいいと思っている。
はぁ〜寒いってのは痛いものだ。