生まれて初めて書いた小論文で東大に合格した話

人生とはなにが起こるか、まったく想像がつかないものだ。

当初は出願する気さえなかった入学試験で、ぼくは生まれて初めて小論文を書いて東大に合格した。

もう 20 年近くも昔の話。
かつて東大の入試には「後期日程」という、少ない科目での選抜があった。
ぼくが受けた文科三類は、英語と小論文の二科目のみの試験だった。

出願前は、その後期日程は受けるつもりもなかった。
科目の多い前期日程の勉強に全集中していて、小論文の対策なんてまったくしていなかったし、する気もなかったからだ。

そのため、センター試験の出願のとき、後期試験のみで必須となる公民(現代社会、政治・経済、倫理の3科目から選択)は受けなくていいだろうと思っていた。
勉強する時間もなかったし、対策しないで受けても時間と体力のムダだろう、と。

そのことを母に話したら、こう言われた。
「一応公民も受けるだけ受けといた方がいいんじゃない? なにがあるかわからないんだから。」

「まあたしかに、たかだか 60 分くらいのテストだし」と思い直し、対策は一切しないまま、一応公民も受けることにした。

前期試験

センター試験ではそれなりにいい点数を取ることができた。
対策ゼロで挑んだ公民の現代社会は 71 点だったが、全科目の合計点では前期も後期も 9 割を超える点数で、無事にどちらの日程とも足切りされずに受けられることとなった。

正直に言うと、前期日程の試験で合格できるのではないかと思っていた。
いま考えると、模試ではだいたい B 判定だったし、なぜそこまで根拠のない自信があったのかまったくわからないが、とにかく前期でいけるんじゃないか、と。

前期の試験が終わった後も、それなりの手応えを感じていたので、いい結果が出る気がしていた。
前期の合格発表の3月10日までも「もう受験勉強は終わった」くらいに思ってほとんど勉強はしていなかったし、もちろん後期の対策なんて 1 秒もしなかった。いま考えると本当になめ腐っていると思うし、恥ずかしい限りだ。

しかし、前期日程の結果は不合格。
本郷キャンパスまで見に行って、張り出されたボードの中に自分の番号がないことを確認した瞬間の、信じられない気持ちをはっきりと覚えている。
ショックだった。受け入れることがなかなかできなかった。

帰りの丸ノ内線では、そんなに空いてもいない車内で、ぼろぼろ泣いた。
人目があるにも関わらず、涙があふれ出てきてどうしても止めることができなかった。

後期試験

前期の合格発表は 3/10 で、後期の試験は 3/13。
その間にある程度、気は持ち直したものの、やはり後期日程は対策の仕方すらわからず、なにもしなかった。

というより実を言うと、いままで一度も書いたこともなく対策すら一切していない小論文での合格など、あり得ないだろうという諦めの境地だった。
浪人する覚悟も始め、理転(志望を文系から理系に変えること)しようと思い立ち、未履修だった数学Ⅲ・cの勉強を始めていた。

そんな心境だったこともあって、後期日程の試験自体はものすごくリラックスして受けることができた。

小論文は、提示された複数の文章や史料に共通する点を考え、自ら主題を決めて 2400 字以内で自由に論じる、といったもの。時間は 150 分。
与えられた題材を読み終えた瞬間「これなら自分の普段考えていることをおもしろく書けそうかも」と思った。

正直ノッていた。いわゆる「フロー状態」だった。
集中力はものすごく高かく、あっという間の 150 分だった。とても楽しい 150 分だった。
解答用紙の 2400 字がほぼほぼ埋まった。
初めて書いた小論文ながら、そこそこの出来ではないか、と思えた。

主題が一貫している。構成もいい感じ。話に筋も通っている。
提示された題材との関連も明快だ。
なにより、自分独自の主張がうまく盛り込めている。
誤字脱字も何回かチェックして、すべてつぶせたはず。

自分でも、わりといいものが書けたと思った。心を込めて書けたと思った。
ある種「自分の作品」といえるようなものを書けた感じがして、それも嬉しかった。

ただ、それでも合格自体は期待していなかった。
前期のこともあったし、手応えがあったからと言っても結果はわからない。
期待すればするほど、ダメだった時のショックは大きい。
そんな防衛本能も働いていたと思う。

心のどこかで「もしかしたら」という気持ちはあったと思う。
しかし、自分の思うままに自由に書いた文章が、どのくらいの評価になるのかは一切検討がつかない。
ましてや、小論文の添削や採点を一度も受けたこともなかったのだ。
もしかしたら致命的にダメな点もあったかもしれない。

合格発表は、大学まで行かず家でインターネットで結果を見ることにした。
そもそも合格への期待はない上に、前期の合格発表でダメだった時のトラウマのような感じもあった。

ディスプレイに表示された自分の番号を見つけた時は、ものすごくびっくりした。
前期の不合格のときと同じく、この結果も信じられないような気持ちだった。とても嬉しかった。

その嬉しさの中には、合格したという事実だけでなく、自分が書いた独自の文章で東大に合格できたということ、自分の心を込めて書いた文章を認めてもらえたような気がしたことも大きかった。

とにもかくにも、その瞬間にぼくの受験勉強は終わり、自由を謳歌する日々が始まった。

合格の背景にあったもの

正直にいうと、合格発表の日以降、あの試験のことを思い出したり振り返ったりしたことは、ほとんどなかった。
もう 20 年近くも昔の話なのでうろ覚えの部分もあるが、今回こうやってほこりのかぶった記憶の引き出しを開けてみて、初めて気付いたことがある。

ぼくが東大に入れた背景には、父と母の存在があったのだ。
もちろん、父と母の常日頃のサポートがあったから、という意味だけではない。

ぼくは大学受験中、父からすすめられた「書くトレーニング」をしていた。
そのトレーニングで、文章を正しく読む力、論旨を過不足なく理解する力、正しい日本語で決められた文字数に文章を書き上げる力などが、ものすごく身についた。
文章において、客観的な事実・他人の意見・自分の意見をしっかりと書き分けることも、社説を読み込む中で培ったと思う。
あの練習をしていなかったら、きっちりとした日本語のそれなりの量の文章を試験本番で書き上げることなど、到底できるはずもなかった。
(なお、ぼくが書いた小論文の評価されたかもしれないポイントに関しては、また別のエントリで書こうと思う。)

また、母から「センター試験で公民を受けたほうがよいのでは」という意見がなかったら、ぼくは多分公民を受けていなかっただろう。
そして、後期試験を受けるチャンスさえ得られなかった。

ぼくは東大に入れて、東大で学生時代を過ごせて、本当によかったと心から思っている。
自由な中で青春を謳歌し、自分の思うままに人生の舵を取れた 4 年間(実は 5 年間)は人生の中でも特別輝かしい時代だった。
親友と呼べるたくさんの友とも出会うことが出来た。
駒場キャンパスも本郷キャンパスも、いまだに訪れる度に心が高鳴るくらい愛している場所でもある。

その原点の、東大に合格したことの背景には、両親の存在が大きかった。
そんな事実に、いまさらながら気付いた。

父はもうずいぶん前に他界してしまったけれど、次にお墓に行く際にはその感謝の気持ちを伝えようと思う。
できれば生前に伝えたかったが、こればかりはどうしようもない。

母にははっきりと言葉で感謝を告げよう。
いまさらのことではあるけれど、感謝の気持ちは、伝えられるうちに伝えられるだけ伝えた方がよいと思うから。

そしてそのずっと後の未来、あるいは現在の話

さて、生まれて初めて書いた小論文で思いがけず東大に合格したぼくは、それから 20 年近い歳月を経て、いまなにをしているのか。

文章を書くことも、文学部を卒業したことも、専攻した哲学系の学問も、なにも関係ないかのごとく、ソフトウェアエンジニアとして生きている。

社会人大学院で情報科学の修士を取得したり、賃貸物件を超高速に検索できるこの Web サービスを個人で開発したり。
いま現在はフリーランスとして働き、おもに子育てに奔走している。

こんな未来は、20年近く昔のあの頃の自分には、まったくもって想像することなどできなかった。
むしろ当時のぼくが知ったら、小論文で東大に合格した事実なんかよりも、はるかに数奇な未来のように感じるだろう。

本当に、人生とはなにが起こるか、まったく想像がつかないものだ。

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