歌舞伎俳優が本屋さんになったわけ①
みなさん、はじめまして。銀座 蔦屋書店で日本文化を担当している佐藤昇一です。普段はお店でお客様をご案内したり、本を選んだり、フェアやイベントを行ったりしています。最近は、美術展や出版なども企画しています。
はじめてのnoteへの投稿は、まずは自己紹介として、簡単ではありますが自分の来歴を書いてみたいと思います。タイトルにもあるとおり、私はつい4年前まで歌舞伎俳優をしていました。歌舞伎の舞台に立ったことがあって、本屋さんになっているひとは、おそらく自分くらいでしょう。めずらしいものをみつけたと思って、読んでくださるとうれしいです。
歌舞伎俳優になるまで
歌舞伎俳優という職業は世襲制のイメージがありますが、実は外から弟子入りして修行しているひとも多くいます。自分はそんな外から入った役者のひとりでした。
もともと自分の人生は、歌舞伎にまったく縁のない人生でした。大学に合格してキラキラしたキャンパスライフを送るはずだったのに、途中から授業に出席しなくなってしまいました。そこらへんの若気のいたり的な心境はよくある話だと思うので割愛しますが、そのあと新聞で国立劇場の歌舞伎俳優研修生募集の広告を見て、なぜか応募してしまいます。歌舞伎なんて観たことなかったのにです。
試験に受かり、歌舞伎俳優になるための学校に通うことに。12名の同期と入校して2年の学校生活がはじまりました。歌舞伎のことを全く知らないのは自分だけで、みんな歌舞伎に対するあこがれや理想のあるひとばかり。正直劣等生もいいところでした。大学に戻ろうかと何度も迷ったのですが、ただ先生方の真摯な想いに接して、あまりにできないのがくやしくてひたすらついていくだけ。気ついたら卒業していました。
いよいよ弟子入りして舞台に
研修所を卒業すると、本名で出演しながら幹部俳優の中から師匠を探して、弟子入りをします。同期たちにはお目当ての役者がいましたが、自分はまだまだわからないことだらけで、さっぱりでした。そのうちに中村又五郎(当時 歌昇)さんの舞台に出会い、踊り・せりふ・芝居と芸に向き合う姿勢に惹かれました。又五郎さんのお弟子さんからお誘いをいただいて、弟子入りすることに。中村蝶之介という芸名をいただき、初舞台を踏みました。
それからは、又五郎さんの身の回りのお世話や舞台の補助をしながら、舞台に出演する日々です。また師匠にはお子さん(歌昇(当時 種太郎)さんと種之助さん)がいらして、当時はまだちいさかったので子役として出演する機会も多く、楽屋で一緒に遊んだり、お風呂に入ったり、楽しくお世話をさせていただきました。今では立派に成長されて、芸道に精進なさっています。
ちなみに私を誘ってくれたお弟子さんが、「あのとき、実は研修生全員に声をかけたんだけど、一番下手なやつが来たなって思ったよ」と、後日話してくれました。そう言ってくれたのは、きっと少しはましになったからだと思うので、今となっては笑い話です。
約18年の役者生活の末に
師匠や兄弟子など周囲のみなさんがあたたかく、辛抱強く見守ってくれたおかげで、自分は約18年間修業を続けることができました。歌舞伎座などの舞台でもせりふをいただけるようになってきましたし、弟子としては師匠とお子さんの襲名興行という一大プロジェクトに立ち合えて、充実した役者生活であったと思います。
歌舞伎に関しては、できないなりにひたすら学んだ結果、最後には歌舞伎のことが大好きになっていました。能楽、人形浄瑠璃などのほかの芸能、ファッションやアートなどの時代の流行、すべてをどん欲に吸収してきた江戸の一大エンターテイメントが、現代に伝統芸能として生き残っていること。知識だけでなく、身体的記憶として役者に受け継がれていることの奇跡を、毎日の舞台を通して存分に味わうことができました。
プライベートでは、その役者生活のあいだに、母を亡くし、結婚して息子が生まれました。この世界に入ったとき「親の死に目にも会えない」仕事と聞かされましたが、その意味を実際に知ることになりました。年老いてゆく父と息子の行く末を考えたとき、「今までは家族のおかげで生きてこられた、これからは家族のために生きよう」と思い立ちました。ちょうど父が体調を崩したこともあり、2016年1月をもって、歌舞伎俳優を廃業いたしました。
しかし、大学中退で役者しかしたことがない39歳の中年男性に、仕事があるのでしょうか?ここから不安しかない転職活動がはじまります。