ウェストン祭と上高地の自然保護
<河童橋のウェストン夫妻と上條嘉門次>
毎年6月第1週の日曜日は上高地で「ウェストン祭」が開催されています。我々も安曇小学校の児童と一緒に、いにしえの入山ルート「徳本峠」を越えて上高地に入ります。
<徳本小屋は1923年(大正12年)に建築 2019.6.1>
ウォルター・ウェストン(1861-1940)が最初に日本アルプスに入ったのは1891年(明治24年)のことで、軽井沢から上田~保福寺峠~松本~徳本峠を経て横尾本谷経由で槍ヶ岳を目指しました。この時は頂上には立てませんでしたが翌年、槍沢より登頂。地理学者、民俗学者、宣教師でもありましたが、心の底から日本の山々を愛しました。ヨーロッパのアルプスにはない深い森林と谷の魅力「深山幽谷」を楽しんでいたようです。1905年(明治38年)に小島烏水等によって創設された日本山岳会にとっては先駆者でもあり、恩人でもありました。
<ウェストン碑 2017.6.3>
梓川右岸のウェストン広場には「ウェストン碑」が取り付けられています。1937年(昭和12年)に設置されたそうですが、太平洋戦争にともないレリーフが撤去され、戦後の1947年(昭和22年)に復旧設置されました。この時が第1回ウェストン祭となり、今年で73回目となります。
<河童橋より梓川と焼岳 2017.6.3>
今年も上高地には大勢の外国人観光客が訪れていました。新緑と梓川ごしに残雪の穂高連峰を望める河童橋付近は最高の展望スポットで、この地が世界的な観光地であることを実感します。
<焼岳山頂火口 2019.6.2>
しかしながら開発の波がここにも押し寄せた歴史がありました。この美しい自然を守ったのは、先人の努力に他なりません。小島烏水は1913年(大正2年)に『上高地風景保護論』を書き、上高地の森林伐採に抗議しました。
「日本山岳会の名誉会員 、ウォルター・ウェストン氏は 、かつて欧洲アルプスと日本アルプスとを比較して 、日本アルプスに欝葱たる森林の多いのを 、その最も愛すべき特徴としていた 」とあります。
<ヤマシャクヤク 2017.6.3>
「上高地ダム計画」は、明神池上流八百メートル地点にロックフィルダムを建設し、三つの発電所を建設するもので、1956年(昭和32年)、日本山岳会は役員総会で反対決議を採択。「上高地保存期成同盟」をつくって、ユネスコに報告。国際世論にまで訴えて建設中止に追い込みました。
<小梨平のコナシの花 2017.6.3>
1957年(昭和32年)には林野庁が「国有林生産力増強計画」を発表。自然林を人工林に変えるという政策に対して、冠松次郎氏、松方三郎氏は「我々は大いになすべきことがあるのではないか、ヒマラヤ遠征もいいが、自分の国の山を滅茶苦茶にしておいて何のヒマラヤだということなのだ。我々の会は日本の山岳会なのだから、何としても、この日本の山をちゃんとした山にしておかなければなるまい」と述べています。
<徳本峠より西穂~奥穂~前穂~明神 2019.6.1>
高度成長期時代が訪れ、全国国土開発ラッシュの時代、西穂高ロープウェー建設と上高地スカイライン道路計画が浮上。ロープウェー計画は、蒲田渓谷鍋平から西穂高稜線割谷山付近を越えて上高地ウェストン碑付近までの5240mに架設しようとするもの。道路計画は、安曇郡三郷村から鍋冠山~大滝山~徳本峠北面を経て上高地までのドライブウェーの計画でした。
<徳本峠ちから水付近のニリンソウ 2019.6.1>
1963年(昭和38年)上高地で日本山岳会支部長会議が開催され、全員一致でロープウェー計画、スカイライン計画とともに反対決議がなされました。直ちに建設中止の要望書が作成され、日本自然保護協会理事会に提出されました。1968年、ロープウェー計画は縮小され、鍋平~千石間のみとなりました。また、長野県案の車道建設も不許可となり、日本山岳会の反対運動は一応の成功を収める結果となりました。
観光客の増加によるオーバーユース、野生動物の増加、焼岳噴火災害のハザード等、いくつもの問題を抱えながらも、後世までこの美しい景観を遺していきたいものと、美しい梓川の流れを見るたびに感じます。
参考資料
1)日本アルプス ウォルター・ウェストン著(平凡社ライブラリー)
2)上高地風景保護論 小島烏水著