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一夏の思い出?
前回のあらすじは、
「生まれつき片耳が無いから、耳を造る手術をすることになった」
要約すると、一行。
さらっと書いたけど、重要な分岐点が一つ隠れている。
それは耳を造る「手術をしない」という選択肢もあった、ということ。
片耳が無いままでも、生きていける。(実際にそういう選択をする人もいる)
極端な話、手術で耳を造るのは「見栄え」の問題と言えなくもない。
9歳の自分は、なぜ手術することにしたのか? 理由は簡単。
「手術は大変だから。トイ○らスで、好きなおもちゃを買っていいよ。」
という母からの一言だ。 一切の迷いは、なかった。
おもちゃ>手術 という価値観は、何やかんだで9歳だなと今も微笑ましく思う。
話が外れたけど、小3の夏休み、とうとう迎えた入院の当日。
横浜市立大学の附属病院に、約2週間入院する手続きが済んでいた。
いざ病室に向かうエレベーターの中、どっと押し寄せてくる不安。
(4人部屋で2週間…。同じ病室の子は、どんな子なんだろう…。)
「自然に見える耳」を造れる名医とあって、全国から手術を受けに子供が集まる。
夏休み・冬休みは、学校が長期の休みだから絶好の手術シーズン。
入院病棟(形成外科)の4人部屋は、同じ手術を受ける同年代の子供ばかり。
病室に一歩踏み入れると、それまで騒がしかった室内がシーンと静かに。
自分のベッドに荷物を置き、しばらく無言の時間が過ぎる。
(ここでも仲間外れかなあ…。)と諦めかけていると、一人の男の子がニコニコ近づいてきた。
「ねえ、このマンガ読む?」
その一言に、救われた。今でもはっきりと覚えている瞬間。
「マンガ、まだあるから。読み終わったら、次を貸すよ。」
そのあとは、様子を伺っていた他の子も集まって来て、
「君、名前は?どこから来たの? 僕は○○県から。こいつは△△府から。」
「おい、隣の病室の子も呼んでこよう!」
と歓迎の儀(?)が始まった。
(自分以外に、自分と同じ障害を持った子がこんなにいる)
というのは、本当に新鮮でうれしかった。
ちなみに最初に声をかけてくれた男の子とは、今に至るまで20年来の親友だ。
それからの約2週間は、本当に楽しい日々だった。
みんなで、お菓子食べ放題、テレビ見放題、騒ぎたい放題。
「あなた達は、お猿さんですか!?」と看護師さんには何度も怒られたけど…。
でも、どの子にも手術に対する不安は常にあった。
非常階段で隠れて泣いていた子もいた。公衆電話で、毎晩電話している子もいた。
もちろん自分も。そして誰かの手術の日は、みんなで手術室まで見送った。
手術では、お腹の軟骨を摘出して、造った耳を頭に移植する。
今朝まで元気にはしゃいでいた仲間が、心電図を付けて全身麻酔で帰ってくる。
お腹には生々しい縫い糸、頭には移植した耳を保護する分厚いスポンジ。
夜になると「うう…。」という、か細い呻き声。
「大丈夫?何か欲しいものある?明日には起きれるよ。」と励ます。
そして、自分の日がやって来た。
手術が終わってベッドごと病室に戻る最中に、全身麻酔が切れて意識が戻った。
酸素マスクに心電図、点滴にカテーテル。そして、お腹と耳の鈍痛。
訳が分からなくてパニックになり、ベッドから起き上がろうともがいた。
あまりの苦しみように、立ち会った母は腰が抜けてしまったそうだ。
今思い返すとあまり記憶に無いのだけど…。
手術のあとは、だいたい3、4日でまた普通の生活に戻れる。
移植された耳は見れないから、お腹の傷をまじまじと観察した。
一直線にパックリ切れている。もはや何針とかいうレベルでは無い。
「お腹の傷に響くことはしないように。」とは言われていたけど、言われたらやってしまうのが子供のサガ。
くだらないダジャレや下ネタで、みんなでクククっと笑っては、イタタとなる。
そして、退院の前夜はみんなで退院祝いのパーティーをする。
こうして約2週間は、あっという間に過ぎていった。
2回目の冬休みの手術の話もあるけど、大体同じ内容なので割愛。
「入院生活は、本当に楽しかった。是非もう一回入院したい。」
と他人に言うと、(こいつ何言ってるんだ)と怪訝な顔をされると思うけど、
本当にそう思う。
辛かったことは忘れ、楽しかったことは覚えているのが人生。
入院する日の自分と、退院する日の自分。大きく豊かな経験をした夏だった。