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無駄を愛する、余白こそ人生

 やらされてやることと、誰に言われるわけでもなく、自分でやることについての感じ方が、随分と違うのはなぜでしょう。同じ内容でも、自分の場合、両者の感じ方は大きく異なります。経験上、好きな内容でも、やらされていることを意識すると、じきに苦痛を感じるようになります。

 人間の脳は不思議なもので、やらされることについては、とかく苦痛を感じがちなのだと思います。プラモ作りが好きな人に、500円あげるからこれを組み立てと、たくさんのプラモキットを与えたら、苦痛を感じるようになったという話を聞いたことがあります。

 これはおそらく、長い人類の歴史が関係していると思います。かつては生きるために、やらなければならないこと、やらされることが人生の大半を占めていました。自分のやりたいことがこれだけできるようになったのは、人類の歴史を振り返っても、ここ50年ようやくだと思います。

 しかし、生きていると、やらなくてはならないことが、未だにたくさんあります。そんなとき、私が意識しているのは、やらなくてはならないことに、やらなくてもいいことを必ず含めるようにすることです。例えば、ある資料を作成するにしても、そこまで調べなくていいのにという範囲に飛び火させるといった小さなアクセント、無駄な努力、遊び心、表現は何でもいいですが、そういったニュアンスを加えます。

 また、やらなくてはならないことで1日が埋め尽くされないように、そんなときでも、やらなくてもいいことを、必ず1日のどこかにしのびこませます。1日中、やらなくてはならないことで埋めてしまうと、心がゆっくり死んでいくからです。

 やらなくてもいいけど、やることのうち最もコスパがいいのは、勉強と運動です。これらに動機付けは必要ありません。痩せたいとか、これこれこういう理由で、という部分を意識すると、必ず嫌気がさします。それをあえてやる理由として適切なのは、おそらく、やらなくてもいいからやるといった理由でしょう。一見、頭がおかしい人が何を言っているんだという印象を持たれるかも知れませんが、何らかの意味がそこに忍び込みそうになった場合、丹念にそれを除いた方が、モチベーションの観点からは賢明です。

 無駄を愛するというか、必要性にとらわれないというか、人生は遊び、余白の部分にこそ真髄があるといった考え方です。しかしながら、人生振り返ってみると、必要性など全く考慮せずに、理由なく没頭していたことが、人生にとっていちばん豊かな成果をもたらしてきた気がします。

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