『佐藤栄作日記』から見る吉田茂の国葬【55年後に想う】

「政治の師を送る」強い意思

吉田茂元首相(1878年9月22日~1967年10月20日)の国葬は逝去から約10日後の1967年10月31日(火)に日本武道館で執り行われた。
55年経ったいま、国葬までの経過を当時の首相佐藤栄作(1901~1975)の日記の記述で辿る。なお、各種表記は原則日記の通りにした。

佐藤栄作が政治の師である吉田茂の死を知ったのは外遊先のマニラだった。9月に続く2度目の東南アジア歴訪(10月8日~)で併せてオーストラリアとニュージーランドも訪問している。
フィリピンとは道路建設の費用負担や通商、租税関係の条約など懸案が山積でマルコス大統領との首脳会談は予断を許さない状況だった。他の日程をこなした後の晩、大磯で静養中の吉田元首相の容体についての報道を聞く。

10月19日(木)
10時から約1時間半、大統領と会談。日比友好道路の協力で話が合わぬ。一寸困った。明日にもち越す。
午餐は上下両院議長の招待。目下選挙中なので集りは悪い。ポロクラブでの催し。
4時半から大使官邸で在留邦人、技術援助者、海外協力隊と3班に各々会見、事情を聞く。通商航海条約、租税条約等問題あるも、マルコス大統領の誠意にすがるのみ。
8時から大統領の招宴。マラカニアン宮殿で行はれる。ジョンソン大統領のとまった部屋を小生共に提供されておるので、招宴に出かけるには時間はかからない。
比国古代の楽器をつかった歌や踊りで相当賑やかなもの。然し近代的な楽器には及ばぬ。11時半終宴。更に屋上から夜景を眺め、無事行事を終わる。
吉田さん危篤の報が時事通信からはいったが、木村官房長官から武見医師の言としてうち消してきた。一安心。

『佐藤栄作日記・第3巻』朝日新聞社,pp.156-pp.157;1998年

メディアの「飛ばし」はいまに始まったことじゃないようだ。
しかし、現地の日付が変わって間もなく逝去の連絡が入る。当日中に国葬執行の意向を東京の自民党幹部に伝えて調整を始めさせる。

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