東京2020パラリンピックに想う【富田宇宙選手と杉浦佳子選手の輝き】
オリンピックから途切れなかったメダル
8月24日から9月5日までの13日間行われた東京2020パラリンピックは感染症禍の影響が懸念され、一時はオリンピック以上に日本国内世論の開催への賛否が割れるほど。しかし一部の学校観戦以外無観客となった大会は大きな混乱なく進み、テレビ等で世界のアスリートの卓越したパフォーマンスと強靭な意思に接したひとたちの間には好意的な見方が拡がった。
開閉会式もオリンピックのそれより思想が伝わる骨太の内容で好評だった。
もちろん人々の心を動かした最大の要素は日本選手団の活躍。
2016年リオ大会では金メダルゼロに終わり、東京大会に向けて「金メダル20個メダル獲得総数7位以内」と目標を掲げて強化に努めてきたが、大会前は冷ややかな意見やメダル目標を立てること自体に対する疑問が取りざたされた。
結果、目標には及ばなかったが金メダル13、銀メダル15、銅メダル23個を獲得、総数は51で2004年アテネ大会の53に次いで史上2番目、メダル総数は11位に食い込んだ。
何より素晴らしいのはオリンピック同様、競技期間中1日も途切れずメダル獲得があったこと。
つまり今回の日本選手団はオリンピック、パラリンピックを通じて毎日1個はメダルを獲得したのだ。
選手とそれを支えたひとたち全員を心から讃えたい。
競泳の鈴木孝幸選手(日本選手団金メダル第1号)、山田美幸選手(同メダル第1号)、ついに金メダルを獲得した木村敬一選手、底知れぬ将来性を感じさせた山口尚秀選手、ボッチャの杉村英孝選手、招致段階から関わった車いすテニスの国枝慎吾選手、有言実行の2冠達成車いす陸上の佐藤友祈選手、マラソンで国立競技場のセンターポールに日の丸を揚げる偉業を成し遂げた道下美里選手、家族思いの明るさと涙が素敵だったトライアスロンの宇田秀生選手、ガイド椿浩平氏とのチームワークに震えたトライアスロンの米岡聡選手、19歳の梶原大暉選手をはじめニュース速報大連発のメダルラッシュをかけたバドミントンの皆様・・・とても書き切れないほどたくさんのメダリストが心に残った。
なのでここはあえて御二人だけ、自転車競技2冠の杉浦佳子選手と競泳で3つのメダルを獲得した富田宇宙選手を取り上げる。
生死の瀬戸際から這い上がり掴んだ2冠【杉浦佳子選手】
富士スピードウェイが会場だった女子個人タイムトライアルと女子個人ロードレースの金メダリスト杉浦佳子選手(1970年生まれ)を知ったのはNHKの事前番組「50ボイス」。
「失礼ですが御幾つでしょうか?」と問われて笑顔で「ジャスト50です」と答え、続けて「《50ボイス》というからてっきり50歳の人間が出る番組かと思った」と屈託なく話す姿に興味を持った。
薬剤師をしながら趣味の自転車ロードレースやトライアスロンの大会に出場していた杉浦選手は2016年、レース中に落車。頭などを強打して重傷を負い、最初の2週間は昏睡状態。一命はとりとめたが右半身のまひや高次機能脳障害が残った。興味深いことに事故の記憶は全く無く、リハビリの一環としてパラサイクリングを始め、翌年から大会に出場し始めるとメキメキ実力が上がり、事故から約2年後にはパラサイクリングロード世界選手権女子ロードレース優勝などを果たした。
迎えた東京2020パラリンピック。
杉浦選手は調整を兼ねトラック種目のパシュートとタイムトライアルに出場、いずれも自己のベストの日本記録をマークし、後者は4位入賞。好調を維持して翌週のロードに臨んだ。まず女子個人タイムトライアル(8月31日)は2位の選手に22秒以上の大差をつける最高タイムで優勝、続いて女子個人ロードレース(9月3日)も力強く巧みなレース運びを見せて制した。サーキットの一部を逆回りで使うコースのため、最後は自動車レースの際の1コーナーを登ってくる形。この場所で日本人選手がコーナーから立ち上がり、ホームストレートを金メダルに向かって駆け抜けた光景はテレビ観戦していて実に気分爽快。
オリンピック、パラリンピックを通じて日本人選手最年長の金メダリストは1つ目の金メダルの後「最年少記録は一度しか作れないが最年長記録は更新できる」と言い切り、有言実行した。
見事で鮮やかな二冠達成だった。
葛藤の果てに辿り着いた3つのメダル【富田宇宙選手】
東京オリンピック・パラリンピック開幕の約5か月前の2021年2月、偶然見ていたNHK「ニュースウォッチ9」で競泳の富田宇宙選手を初めて知った。
この時期は感染症の終息が見通せず、大会開催の可否に関する議論が盛んに交わされていた。
取材の中で富田選手は特定の立場から主張することなく、慎重に言葉を選び、自身の思いを真っすぐ伝えようとする話ぶり。暗中模索の状況で異なる国や地域でオンラインのタイムトライアルを行う試みに参加するなど前を向いていた。
今まで筆者はいわゆるパラアスリートに格別の共感を抱くことは正直なかったが、富田選手の物事に相対する姿勢、品格ある言葉遣いに強い興味を抱き、応援したくなった。
地元の進学校に身を置き、高校時代の途中まで成績優秀で水泳部に属する「文武両道」の模範的学生だった富田選手。ところが、次第に視力が奪われる難病に侵されて成績は急降下、色々な面で道が狭まるなか水泳は何とか高校卒業まで継続した。日体大進学後は社交ダンスに打ち込むが、症状の進行とともにそれも難しくなった。
打ちひしがれたところに周囲の勧めで加わったのがパラ水泳。馴染むにつれて少しずつ心のとげは和らぎ、元々の運動神経の良さからタイムが縮んでいく。幸か不幸か病気により視力をほぼ失い、障害のクラス分けが変わるにつれ、日本の該当クラスの有力スイマーとなった。NHKのインタビューによればこの間、相当な葛藤があったようだ。
しかし、水泳の実力を磨く傍ら、視覚障害者の社交ダンス(ブラインドダンス)大会を制したり、テレビ番組の企画でやはり社交ダンスに取り組むなど積極的な行動に乗り出す。
そして2019年の世界選手権で2種目の該当クラス2位を獲得。東京パラリンピックの代表に内定した。ようやく巡り着いた人生の目標だが、周知の通り大会は延期され、開催の賛否が渦巻く状況に。
富田選手は故郷の熊本に赴き、生家で練習環境を整えて調整した。加えて情勢の変化を見ながら、前述の通り機会ある度に様々な発信に取り組んだ。
たくさん悩み、葛藤した果てに迎えたパラリンピック本番。富田選手は開会式で国旗を運ぶ一員に選ばれ、眼のことを忘れるほど洗練された立ち居振る舞いで大役を務めあげた。
続く「本職」。
世界のレヴェルアップの著しさを踏まえて「好タイムを叩き続けないと(メダルは)難しい」と踏み、予選から確実にタイムを出し、決勝も着実な泳ぎで個人3種目でメダル(400m自由形銀メダル、200m個人メドレー銅メダル、100mバタフライ銀メダル)を獲得した。
ラストの100mバタフライではパラ競泳の第一人者の木村敬一選手と好勝負を演じ、レース後に健闘をたたえ合う姿に感動の輪が拡がった。
リレーも含む自身の出場種目において100mバタフライ以外は自己ベストを更新したあたりにコンディショニングの巧みさがうかがえる。
パラリンピック後、スペインを拠点に競泳選手としての研鑽に励みながら、日本ではメダリストの知名度を生かし、他の競技へのチャレンジなど多彩な活動に取り組んでいる富田宇宙選手。
今大会最も印象に残った選手であり、これからの人生の豊かな実りを確信する。
なぜならこのひとの言葉、佇まいに接するとテレビ越しでも幸せな気持ちになれるから。
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