「環状線」と「放射線」【竹入義勝・元公明党委員長死去】
1926年1月10日、長野県生まれ。尋常小学校卒後国鉄職員。陸軍航空特別幹部候補生で敗戦を迎える。結核を病んだことがきっかけで創価学会入り。
東京・文京区議、都議を経て1967年に公明党から衆議院議員当選。
直後に都議時代の政治センスを買われ、41歳の若さで党委員長に抜擢。以後20年間委員長として党を率いる。
硬軟自在の存在感
竹入義勝は創価学会員、公明党員の一種の典型といえる。
戦前戦時中と苦労し、病気を契機に入信・・・は戦後創価学会が急速に会員を増やす「ルート」だった。
背景には先般死去した池田大作・第3代会長が、戦時中の理不尽な体験や家族の病気に見舞われ、その時期に創価学会と出会った経緯がある。池田大作はいわば自身の体験を下敷きに組織拡大のプロセスを形成したのだ。
このやり方は宗教に限らず、ビジネス成功の一種の王道でもある。
何もないところから「これいかがですか」とやってもひとはなかなか振り向いてくれないが、自身と同じ体験をしたひとに目をつけ、「私もかつて貴方と同じような経験をした。これに出会って希望が見いだせた。貴方もいかがですか」とアプローチすれば少なくとも話は聞いてもらいやすい。
実際、池田大作は1970年代に書いた日本経済新聞「私の履歴書」で「家族が病気というひとの気持ちは他のひとよりよく分かるつもり」と記している。
戦後復興から高度経済成長へと歩んだ日本で、時代の波間に揺れるひとの心にうまく入り込み、創価学会は単なる仏教の復権団体にとどまらない、日本屈指の宗教団体となった。
池田氏が創立し、竹入氏が率いた公明党は曲折を経ながら国会、都議会、地方議会に一定の勢力を築いた。
竹入氏は都政で革新側につく一方、経歴の重なる田中角栄氏に食い込むなど巧みに立ち回り、「公明党=政局のカギを握る政党」の位置づけを確立。
また日中国交正常化の過程でいわゆる「竹入メモ」による橋渡し役を担った。
都議時代、他党の幹事長と殴り合いまでやっても、折を見て「もう止めましょう」と引き、笑い飛ばしたという。この闘争心と駆け引き上手の調和が、公明党の衆議院進出と同時に41歳で委員長に抜擢された理由と推測できるし、多方面にネットワークを築けた原動力と考えられる。
同党発展の功労者のひとりが竹入氏なのは消せない事実だ。
党勢拡大の「功労者」が晩年に「炎上」
ところが、今から四半世紀前の1998年8月、朝日新聞朝刊に竹入氏の回顧録「秘話・55年体制のはざまで」(聞き手:小林輝昌編集委員〔当時〕)が連載(全12回)されたことで事態は一変する。
公明新聞は同年9月末から11月にかけて「謀略と欺瞞の人物」として竹入氏批判の特集記事を連日掲載。女性関係や金銭問題に始まり、「雑誌の対談に添えた略歴に「陸軍航空士官学校卒」と詐称した」なることまで事細かにあげつらった。結局竹入氏は公明党を除名された。
創価学会、公明党がここまで「反応」したのは竹入氏の以下の発言が原因とみられる。
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