「イタリア風お好み焼き」に耐えられるか〜『ヘテロギニアリンギスティコ』を読む
他言語を学んだことがあるでしょうか。
わたしは一応、英語だけは使えるレベルまでいきまして、齧っただけの言語は3つあります。
イギリスに留学して、曲がりなりにも英語で生活をしてみて、英語という言語をかなり理解できたと思っています。
……と、思う反面、どうしても都合のいい解釈の枠を越えられないのではないか、という気持ちが、『ヘテロギニア リンギスティコ』を読みながら、むくむくと沸き上がってきました。
ひょっとしたらわたしは、自分が思うほどには、英語というものを理解していないのではないか。
例えばそれは、ピッツァのことを「イタリア風お好み焼き」と呼ぶようなものなのかもしれません。
『ヘテロギニア リンギスティコ』
ヨーロッパ言語を学んだ人には、タイトルから
「リンギスティコ」=言語学関連のなにか
「ヘテロ」=異〜
だろうな、という予測がたつでしょう。
そのとおり、このマンガのサブタイトルは、「異種族言語学入門」といいます。
いま3巻まで出ていて連載中のこの作品、ずっと気になっていたのですが、DMMブックスが60億円の赤字を出した例のお祭りの際に、ようやく購入しました。
ありがとうDMMブックス。
この作品は若い学者ハカバ(通称:センセイ)が、怪我をした教授の代わりに「魔界」で言語学的なフィールドワークを行う物語です。センセイは半ワーウルフの少女ススキに助けられながら、魔界に住む様々な“モンスター”の言語や生活を学んでいきます。
初歩のワーウルフ語だけを学んだセンセイは、教授の覚書をたよりにフィールドワークに取り組みますが、戸惑いの連続です。
魔界での1日目、センセイはワーウルフたちが、ほとんど言葉を交わさないことに気がつきます。
ススキの家族も、ほとんど会話をしません。
それどころか、センセイの挨拶や世間話にもあまり反応を示しません。
歓迎されたはずなのになぜ…… と落ち込むセンセイに、ススキが「匂いでわかる」と教えてくれます。
嗅覚の優れたワーウルフは、音声による意思疎通だけでなく、匂いで多くのコミュニケーションをとっていたのでした。
こんな感じで、リザードマンの色彩感覚に首を捻ったり、スライムの自己統一性に悩んだり、「“ワン!”を”オン!”した」食べ物の正体がわからなかったりしながら、センセイは魔界を少しずつ体験していきます。
ひとつひとつの描写がとても細やかで、センセイと一緒に魔界を発見していくような楽しさと、困惑を感じられます。
センセイにとって魔界の住人と意思疎通を図るのは困難ですが、人間が一律に「モンスター」と見做しているひとびとにとっても、異種族との交流は簡単ではありません。
異種族間では、コミュニケーションの根底にある物事の認知の仕方(嗅覚メインか色覚メインか、など)が違ったり、他種族の言葉を共通言語にしていたりと、苦労が多いことが読み取れます。
そこには、「人間」「モンスター」の差ではなく、「ニンゲン」「ワーウルフ」「リザードマン」「ハーピー」「スライム」という異種族の差があるだけです。
センセイは住人たちの行動や言葉の使い方から、ワーウルフ語の「オン!」が「混ぜる」という意味であることにあたりをつけます。
一方で、同じく「混ぜる」と翻訳できそうな「ンー!」という語があり、このふたつがどう違うのか、考察を続けていきます。
ある程度落とし所が見えたとき、センセイは「分かりやすくなったけど、言葉の豊かさを失った気がする」と感じます。
ある言語から別の言語へ意味を移しとるとき、元の言語が持っていた何かを失ってしまうのです。
それは別に異種族間に限ったことではなく、わたしたちの現実世界でも起こっています。
はじめてピザに出会った日本人は、きっと「イタリア風お好み焼き」とでも説明したことでしょう。
一昔前は、チヂミが「韓国風お好み焼き」と書かれていたし、今でもパッタイは「タイ風焼きそば」、バインセオは「ベトナム風お好み焼き」、トルティージャは「スペイン風オムレツ」と説明されていることがほとんどです。
その説明は日本人にとってわかりやすく、「なるほどそういう食べ物か」となんとなく理解した気がします。
はたして、本当にそうでしょうか。
わたしはスペインに行ってみて、トルティージャが日本人の考える「オムレツ」ではなく、もっと家庭的で地味な料理のように感じました。
ここに、ある言語から別の言語に、無理矢理意味を移し替えたときの弊害があります。
それだけでなく、たとえ元の言語の発音をそのまま持ってきても、その言葉の持つ空気感というか、背景的な感覚を理解するのは、ほとんど不可能のように思えます。
わたしはピザをピザと呼びますし、イタリアンレストランに食べに行けば、イタリア語の発音のままのメニューを見てもだいたいわかる程度には、ピザという料理に親しんでいます。
でも、イタリアの生活のなかで「Pizza」という語がどんな意味を持つのか、いつどのように食べ、どの季節にどの味を楽しみ、地域ごとの差を見出し、文化的な背景を感じるものか、全くわかりません。
わたしが理解しているピザは、ひょっとしたら「イタリア風お好み焼き」の域を出ていないのかもしれません。
人間とはあまりにも違う生活習慣に困惑し、混乱したセンセイは、教授もかつて同じように感じていたことを覚書の中に見出します。
「私が理解だと思っていたこと」
「理解ではなく解釈だった」
「理解への壁はあまりにも高い」
(『ヘテロギニア リンギスティコ』1巻p.162)
異種族間だけでなく、人間の異言語間でも、理解の壁はとてつもなく高いのかもしれません。
お好み焼きを例に挙げましたが、そもそもわたしは「お好み焼き」と「モダン焼き」と「広島焼き」の区別もあまりついていません。
そばの有無?
関西以南の人に怒られそうです。
日本語であっても、他の文化圏をりかいするのは、とてつもなく難しいですね。
「自分は思ったよりもわかっていないぞ」という心構えが、異文化理解には大切だと改めて感じたのでした。
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