「『ピーター・パン』は私たちに「子ども」を掲示する ー永遠に。」
実は手元にあるのは再版の翻訳であって、タイトルに用いたのは初版の「はじめに」の一文だ。
本棚本シリーズは「本の枕」をタイトルとするのを常としているので、「再版はじめに」のあとにくる「初版はじめに」からとるのはいかがなものかと、しばし悩みはしたのだが、あえて初版を用いた。
この一文が、わたしとこの本の出会いであったからだ。
ちなみに再版の「はじめに」はこう始まる。
「「何ごとも[たとえ例外だとしても]いったん認められてしまえば、それが先例になるわけでして……」
こちらは流石に、本書の内容を表現し切ってはいない。
いや、してはいるのだが、わかりにくいことこの上ない。
まあ、どうしたって専門書というものは、わかりにくいものではあるのだが。
ジャクリーン・ローズ著、鈴木晶訳『ピーター・パンの場合 児童文学などありえない?』(新曜社、2009)
日本での訳本が出たのが2009年(あと2年早ければ!)、原書の初版は1984年、再版は1992年。
このテキストは、大学院の授業の一つで使われていた。
そして、「ピーター・パン」が英国においてどのような意味を持つのかを知らないわたしは、この授業に大いに苦しめられた。
いや、授業全部に苦しめられた。
がむしゃらに本を読み、わからないながらにレポートを提出し、ディスカッションをし、這々の態で修論を出し、どうにかパスをした。
それがわたしの院生生活だった。
そして日本に帰ってきたら、訳本でてるじゃん!!
悔しさ半分、「で、結局何だったのあれは」半分で購入して読んだ。
やっぱりイマイチわからなかった。
やっぱりわかんないじゃん。
専門の勉強とは、得てしてそういうものだと思う。
日本における「ピーター・パン」は、第一にディズニーアニメの「ピーター・パン」であり、ついで児童文庫に入っている「ピーターとウェンディ」だろう。
後者のほうは圧倒的に知名度が低い。
そしてさらに知られていないのが、「ピーター・パン」はもともと子ども向けの演劇の脚本として書かれたということだ。
「ピーター・パン」の1番の原作は、ジェームズ・バリの劇場版脚本であり、舞台そのものである。
そのピーター・パンは、いまや作者の手を離れ、原作の舞台からも離れ、自由自在に空を飛び回っている。
いや、空を飛び回され続けている。
大人によって。
「ピーター・パンは私たちに「子ども」を提示する」
“私たち”とはだれか。
もちろん、私たち“大人”に対してだ。
ピーター・パンはすでに、子どものものではなくなった。
大人による“新解釈”、“あたらしい演出”、“翻案ものの原作”、“作品のインスピレーション”となり、「永遠の子ども」であるピーターは、大人にいいように飛び回されている。
そこには「子ども」の主体性はない。
「子ども」の自由さを認める姿勢はない。
「子ども」の「無垢性」は、大人たちの自己顕示欲、性欲、所有欲、名声欲などに飲み込まれ、すでに失われてしまった。
「妖精を信じているなら手を叩いて」と観客に呼びかけた、妖精の存在を皆が信じていることを信じている純真な子どものピーターは、もはやいない。
いや、その演出さえも、「大人」によるものなのだから、そして演者は大人なのだから、はじめから「子ども」のものなど一つもなかったのだ。
わたしは大学院で児童文学を専攻した。
勉強中、「児童文学」、「子どもの文学」がいったいなんなのか、結局わからなかった。
今でもわからない。
でも少し距離をおいたことで分かったことはある。
どんなに優れた「児童文学」であっても、何十年も子どもに読み継がれる物語であっても、そこには「大人」の介在が常にあることだ。
大人によって書かれ、大人によって編集され、デザインされ、印刷され、選ばれ、売られる。
子どもの手に収まるまで、「児童文学」は子どものものではないし、子どもによる子どものための物語は、文字文化の中には存在しない。
そのくせ、大人は子どもが「大人の文学」を読むのを認めても、大人が「子どもの本」を読むことを軽視する。
どちらも大人によって作られた作品なのに、である。
それでも、「子どもの本」は子どもを惹きつける。
子どものころのわたしは、そこに「本の中の自分」を見ていた。
あるいは、「本の中の友達」と一緒に冒険をしていた。
大人になったわたしも、「子どもの本」に惹きつけられる。
そのとき、わたしは「大人の視線を通してみる子どもの良さ」と、「自分の中の子どもの部分が呼応する気持ち」のふたつを、二重に重なった世界として見ている。
そもそも、「自分の中の子ども性」とはなんだろうか。
そんなものは、ある意味で幻想だ。
大人にならないと持ち得ない、「子ども」という存在に対する憧憬。
頭ではそう考えるけれど、心のなかでは「わたしの中の子ども」が叫び続けている。
ここにずっといるってば!
子どもの存在は、永遠だろうか。
本当に、大人にならない永遠の少年はいるのだろうか。
大人にならない、永遠の少女はいるのだろうか。
それは子ども自身のものだろうか。
それとも大人が作り出した幻想だろうか。
いつも思う。
「児童文学」とは本当につかみどころのない概念であると。
そして「児童文学」が大人によって「大人の文学」に貶められてしまう、大人に蹂躙される子どもそのものであるということが。
永遠の子ども。
それは大人なしには存在せず、大人が全力で守らなければすぐに失われてしまう。
ピーター・パンに限らず、アリスに限らず、ハリー・ポッターに限らず。
物語の子どもに限らず、現実の子どもたちも。
そこには常に大人の存在が介在している。
わたしたち大人は、それを知った上で子どものものは子どもに、与え続けなければならない。
子どもが子どもでいるために。