香月華はなぜゲーマー設定なのか ~CHAOS;CHILD(カオスチャイルド)考察~
※本編を履修済みであることが前提の記事ですので、未プレイの方が読むことは御遠慮ください
【前段】
結論から言えば「疾風迅雷のナイトハルト」こと西條拓巳を本作に登場させたいがために、そのための接点となる役を担うキャラを創り出したのではないかと思う。
もちろんこれは製作者がそのように発言しているわけではなく「私が勝手になんとなくそう思った」だけの話であり、したがってこれから記述していくこともまた全ては私の「妄想」である。
【宮代拓留 と 西條拓巳】
ではなぜナイトハルトを出したかったのか。
ひとつには「前作主人公との夢の共演」をやりたかったというのはあると思う。しかしそれだけでもないだろう。
ナイトハルトは当然ながらギガロマニアックスについて詳しく、エンスー2のチャットを通じて色々と拓留たちに教えてくれる。その中で、
——こんな記述がある。
おそらくはこの情報を前作未プレイの人間の頭にも入れておきたかったのだろう。
「あのときの戦いで僕は人ではないものになり果てちゃって、そこから元に戻るために力を捨てたわけ」
TRUEにおいて宮代拓留がいかにして「CC症候群からの最初の帰還者になりえたか」を考えると極めて重要な情報である。
ゲームメイカーである世莉架の御膳立てを拒否してヒーローになることを捨てた宮代拓留。そして彼は「好きな子」である世莉架を守るため彼女を「普通の女の子」に変え、そして自らもまたギガロマニアックスの能力を捨てた――つまりは「力を捨てた」わけである。
これが期せずして彼をCC症候群からの最初の帰還者にし、ひいては友人たちを救うきっかけをも作った。
作中でCC症候群から回復した人間のことが「帰還者」と表現されている背景には、香月華編でナイトハルトの言った「元に戻る」という表現と重ね合わせる意図があったのではないだろうか。
【ロールシャッハテスト と 信憑性皆無なサイコパス診断】
話が明後日の方向に飛ぶようだが、共通ルートの終盤で出てくる「ネットで有名なサイコパス診断の話」について言及しておきたい。
これは久野里の言葉にもあるように、実は「信憑性皆無」な診断テストであり、話を切り出した拓留のほうもまたそのことを承知しているような描写がある。
また作中において象徴的なキーワードである「ロールシャッハテスト」であるが、これもまたその効果は疑問視されており、それについてもやはり久野里が言及している。
両者に共通するのは、
「実際には回答の内容から何かがわかるわけではないし、答えを先に見たところで答えにそもそも意味など無い」
というところである。
しかしながらロールシャッハテストには件のサイコパス診断には無い特徴がある。それは「被験者の反応(回答ではなく)を重視する」という点である。つまり、
真剣に考えて答えたか
ふざけながら答えたか
質問者の顔色を窺いながら答えたか
では「たとえ回答が同じでも意味が全く違う」というわけである。
回答の内容が何であるかからわかることは無くても「質問に対する回答者の態度からわかることがある」というのがこの診断の趣旨だ。
……思えばこれは「人生」にもまた通じるものがあるかもしれない。
順風満帆な人生を送ってきたはずが、その最期には非業の死を遂げる者がいる。
無数の苦難を味わいながらも、その晩年になって報われる者がいる。
非業の最期を遂げた者の遺志を継がんとする者がいる一方で、成功者の後に続かんとして道を誤る者がいる。
ある時代において英雄として讃えられた人間が、後世の歴史観のもとで奸賊に貶められ、かと思えばさらに後の時代に再評価される。
そういった事例は枚挙に暇がない。
そこには「こうすれば良い」という正解は無く、また「こうでありさえすれば良い」という正解も無い。
歩んできた道の意味すらもそれを評価する側の主観によって如何様にも歪められその形を変えられてしまう。
それこそ神のような絶対者の裁定でも想定しないことには「人生の正解」など誰にも決めようが無いのである。
しかしながら「決まった正解が無い」からこそ逆に意味を持ち得るものもまたあるかもしれない。それは「選択と決断に対する姿勢」である。
いかにしてその選択にいたったのか、決断に際して何を考えたのか、そして訪れた結果をどう受け止めたのか、そこには当人にしか知り得ない真実がある。
それが自らの選択と決断によるものだったのか、何者かの御膳立てに流されるまま至ったものなのか、両者に訪れた結果が仮に同じでも「意味が違う」のではないだろうか。
【英雄 と 囚人】
六年前のニュージェネレーションの狂気において西條拓巳は冤罪を晴らし英雄となった。
……それが世間と宮代拓留が知る西條拓巳像である。
しかし実際の西條拓巳は世間に英雄として認められるために行動を起こしたわけではない。
―—好きな子を助け守るため
端的に言えばそんな理由である。
これは「目に見える結果だけ」を外野から眺めている世間も拓留もあずかり知らぬ事実だ。
一方で宮代拓留はニュージェネレーションの狂気の再来において「未曽有の連続殺人鬼」として世間にその名を知られることになった。
事件後に明らかにされた犯行声明で彼は世間に対しこう述べている、
「僕がこの事件を起こしたのは、僕のせいではありません。この社会そのものが、害悪に満ちているからです――」
……心にもない嘘である。
そもそも彼は一連の事件の犯人ではなく、言ってみればこれは「冤罪」である。要因の一端が拓留にもあったとはいえ少なくとも「法的責任」を問われねばならない立場に無かったことは事実だ。
にもかかわらず拓留は自らの意志で全ての責任を負い、あえて汚名を被ることを選んだ。英雄になるべく世莉架に用意された御膳立ての全てを蹴ってまでである。それはなぜか?
―—好きな子を助け守るため
端的に言うならばやはりそうなるだろう。
片や冤罪の英雄となった西條拓巳。
片や冤罪の囚人となった宮代拓留。
……両者に訪れた結果はおよそ真逆と言えるものとなった。しかし、
「好きな子を守るために行動し」
「力を捨てることで元に戻った」
両者の選択と決断は期せずして同じものとなった。
ならば世間から見た結果がたとえ真逆に思えるものだったとしても、ある意味において二人は「全く意図せずして同じ場所に辿り着いた」と言えるのではないだろうか。
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