映画「戦雲ーいくさふむー」をみました
今月頭に映画館でドキュメンタリー映画「戦雲ーいくさふむー」を見た。
陳腐な感想だけれど、これは日本に住む一人でも多くの人にみてほしい映画だと思った。
あらすじは以下のとおり。
映画のはじまりは、沖縄戦を体験した山里節子さんの歌で始まる。「また戦雲(いくさふむ)が湧き出してくるよ、恐ろしくて眠れない」と歌う。そこから自然と涙があふれ、映画が終わるまで涙が止まらなかった。最初から最後まで涙の止まらない映画は初めてだった。
この映画では、与那国島、宮古島、石垣島、沖縄本島などという沖縄県のさまざまな地域が、軍事化されていく約7年の経過が収められている。
人々の穏やかな暮らしが国防の名のもとに侵されていく。自衛隊が来ることによる経済効果(むしろ景気は悪くなっている)を信じて賛成した人、反対だけれど声をあげる気力もない人、声をあげたことで後ろ指をさされた人、この問題のために分断されたコミュニティ、法的に真っ当な住民投票で反対の意を示した人々、危機感を住民に伝えようともがく人、。
故郷の軍事化に直面した人々の様々な向き合い方が映し出されていた。
カメラがとらえているのは、人々の抵抗の姿だけではない。
与那国島の祭りの様子にもかなりの尺をとっている。祭りでは地域ごとにチームになって、競漕をする。このなかには自衛隊員も含まれ、祭りに向けて一緒に練習してきたという話も描かれていた。
ほかにも、酪農家や漁師など人々の日々の仕事の様子や、エイサーなどの沖縄文化など、この土地で暮らす人々の暮らしも多く映し出されていた。
このようなささやかな日常や豊かな自然、歴史や文化を丁寧に映し出すことで、軍事化の異常さ、政府の非道さを際立てていた。
もちろん、政府の非道さは比較の問題ではない。実際、非人道的すぎる場面がたくさんあった。戸外での射撃訓練はしないという約束だったのに、戸外でも訓練をし集落まで銃声が聞こえる様子、住民投票の後に住民投票を否決したばかりか住民投票の条例を削除した市議会、住民の目を盗むように測量を始める防衛局、自衛隊ミサイル部隊の配備を反対議員も多くいるなか議会に諮ることなく独断で決める町長の姿など、。
住民に対する説明や住民との対話も十分なされずにどんどん急ピッチで進む要塞化。対話を求めても拒否され、説明がなされてもそのときの約束を破棄にされてしまう。こんな乱暴なやり方が、民主主義の国、日本でなされているという現実。胸が苦しくてたまらなかった。人々の尊厳がこれでもかというくらいに踏みにじられている。これは暴力だ。すでに日本国内で権力をもとに暴力が振るわれている。すでに国内で戦争が始まっているんだ、とすら思った。
そしてこの映画を見るまでは、今沖縄がこんなことになっているなとは思ってもいなかった。それどころか、国の安全を脅かされているのだから防衛力強化もやむなし、と感じていた。そんな自分を殴りたくなった。
沖縄には学生時代に一度だけ旅行で行ったことがある。素敵なところだった。空港に向かう一般の車道で自衛隊の戦車が走っていたのを見たときにはびっくりしたけれど、米軍基地があるからか、と軽々しく納得した自分がいたのを思い出した。
素敵なところだから、ではない。どんな場所であっても、そこに生きる人とその暮らしを一方的な力で壊してはならない。かつて大きな犠牲となった場所ならなおさらだ。そんなことを繰り返してはならない。
最近気になっているニュースに、共同親権問題がある。この国はどうかしている。ますますおかしな方向に行っている。人間の尊厳というものをわかっていない。でも、自分もそんな国を作り上げている一人だ。成人した国民ひとりひとりにその責任がある。そのことを決して忘れてはならないし、それを大変に自覚したうえで、自らの行動を選び取らなければならないと感じた。
映画の中で印象的な言葉がふたつある。
この両者の重厚な言葉は、これから私が生きていく上での大事な指針となるだろう。
何のための「国防」か。この国は何を守ろうとしているのか。
少なくとも、それは国民の命ではないことは明白で、けれども、人々の命よりも重たいものはないはない。そんなことは言うまでもないことだ。
私の結論は、家庭内暴力と同じように、戦争という暴力は絶対にしてはならないことであって、国は日々戦争をしないための最大限の努力をし、万が一暴力を振るわれた時には、国民はその場所を捨てて逃げるしかないということだ。これを国民一人一人が自覚して、そうならないようやれることをやっていく。そして、戦争にならないため、逃げるあてを作るため、どちらも必要なのは外交でしかない。そして個人としては、いつでも逃げられるような準備を整えておくことも必要だ。
生まれた時から平和が当たり前の社会で暮らす我々世代は、現在の平和はたくさんの人の犠牲の上にあることを改めて自覚し、平和は作ろうとしなければ生まれず、維持されないものであることをよくよく覚えておく必要がある。
最後に。この映画のラストはカジキ漁の川田一正さんの笑顔で終わる。川田さんは、映画の中で最もその経過を大切に描かれていた人物ではないかと思う。それは、彼の一連のエピソードが、然るべき未来の姿をも含んだ本編のメタファーのような、あるいは本編と入れ子の関係にあるような、そういうものだったからだろう。