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愛情と承認への神経症的要求

私は自分が雑に扱われている感が続くと夫に「大事にされてる感が欲しい!」とお願いする。
例えば2人きりの時間を作ってもらうとか、テーブルを拭いてもらうとか、コーヒーを淹れてもらうとか、具体的にこんなことしてほしいとちゃんと言うとやってくれる。
私は別に、常日頃大事にされたいなんて大それた事は言わない。
いつもコーヒーを淹れてもらいたい訳じゃない。
10回のうちの1回でいい。
9回は私がやるから、1回は淹れて欲しい。


夫の妹はそんな事夫に頼まない。
夫も頼まれなくても、夫は妹の事を大切な人だと心から思っているので自発的に大切な人用の態度を取る。
それがとても羨ましくて悲しくなる。
私はお願いしないとやってもらえない。
仕方ない。
妹は非日常、私は日常。
それにお願いしたらやってくれるんだからそれでいいじゃないか。
でも例えで言えば、「好きって言って」と言って言わせる「好き」と自発的に「好き」と言うのでは重みが違う。

そして当たり前だけど、夫と妹の間に性的なものはない。性的なものがなくてもちゃんと愛し合ってる。それって本物の愛って感じがする。純度100の愛。
私と夫は性的なものがある。
純度100じゃない、性が混じってる。
なんだか…嫌だ。
私の性に対する認知が歪んでいる事はわかっている。
きっと本来は性的なものは汚らわしくない。
命は性的なもので繋がってきたのだから汚らわしい訳がない。
その理屈はわかるけれど、何故か素直にはそう思えない。
夫に対して、「夫+お母さん」を両方を重ねてしまっているから若干近親相姦のように感じて嫌悪感が残るのだろうか。

切り口は常に違うけれど、私の全ての悩みはここに集結する。
【お母さんがほしい。私は幼児になりたい。無償の愛が欲しい。】
タイトル通り【愛情と承認への神経症的要求】
あー嫌だ。
お願いしなくても、性的なものを差し出さなくても、空っぽの私の存在を愛してほしい。
赤ちゃんは自分で何もできない。
首も座ってない。泣くだけ。
それでも愛される。
何も出来なくても可愛くてたまらない。
なんて尊い存在。あんなに弱いのに、強い。
最強の存在。
私にもそんな最強の時期があったけれど満たされなかった。
その想いを今満たしたいと思っている。
でもそれが無理な事を知っている。
私はもう最強の時期をとうに通り越しているから。
私は赤ちゃんではなく成熟した女性だし、夫はお母さんではなく成熟した男性である。
分かってる。夫に私の歪みを押し付けるのは失礼だ。

人を喜ばせたいと同時に人に好かれたいというがむしゃらな要求。したがって他人中心主義で自己を軽んずる。
それではだめな事は分かっている。
こんな生き方は良くないと分かっている。
しかし、では具体的にどう生きたらいいかは分からない。分からない。分からない。

分からないから自分の人生を引き受けてくれる人がほしいという神経症的欲求が出てくる。
相手に人生上の一切のことをみてもらい、善悪のけじめもつけてもらいたい指示してもらいたい。愛はすべてを解決すると考えて愛を過大評価する。捨てられる恐怖。独りでいられない恐怖。だめだめだめ。だめな生き方。書いてて嫌になる。なんなんだ私は、


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