働く意味というものは考えても湧いてこなかった、少なくとも自分の場合。
「この指とまれ」なんだから、興味のない人はとまらなくたっていいのである。そこを無理にとまらせようとするから色んな不幸が起こる。
これはよくわかる続けてのところも。
「この指とまれ」と言ってもとまらないけど、だからといって他のどの指にもとまらないし、だったら自分の指を出せばいいのにそれもしない、という人は、とりあえず誰かの指にとまってみて、そこで一度他の人のやりたいことを共にしてみる経験も必要だろう。サラリーマンをするというのは、そういう意味でしかないと思っていて、運よくそのままとどまり続けていもやりたいことができそうな場合はとどまればいいし、やっぱり自分でやりたいことがある人は別のメンバーを呼び寄せてみたらいい。
誰かの指にとまるところから始める、は99.9%の人がそうじゃないだろうか。いきなり起業する人以外はそうだし。ただ、このこの指とまれはやっぱり40年続けられるということはないだろう。つまりひとつの会社でずっといられるというのは稀有になるだろう。もともとそうだったのかもしれないけれど。
ただ、いぬ氏のように◯0年!?ひとつの会社にい続けるというのは、なんというか、惰性だけではできないとも思うのだ。思い込みの認知を変えようとする努力や、耐える力(今はつまらないが風向きは変わるだろうとか)、いなす力、いろいろと「力」が必要だ。今風にいえばレジリエンスということかもと思う。
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先日、ギタージャンボリーというイベントにいった。関東のJ-WAVEというFM802よりもアーバンでイケてる感を醸し出すラジオ局のイベントである。(俺は802のほうが好きである)麻布テーラーという背広メーカーがなぜ協賛するのか本当にわからないが、素晴らしいイベントだった。逆に好きになったわ、麻布テーラー。一着だけ礼服もってるけど。
ま、イベントの紹介は関係ないのだが、その時同行した後輩(だけど役職は俺より上のいけてる人)から、ライブあとにキャリアの話をつらつらとしたりした。俺のことは最近書いているごとくちょっと40以降の歩みは新しい道になるからと吹っ切れ気味であるので割愛だが、後輩は、転職ドーテーであり、最近仕事で行ったインドでの経験なんかもあって、英語とかスキルアップおよび転職が前より視野に入ってきたということだった。
不思議と嫉妬はしなかった。育休のおかげ(せい)でそういう思考になっているのだろう。俺の道としてはそういうのは辿れないという諦め、諦観があるのだと思った。もちろん、自分なりにスキルアップや転職なり仕事の模索というのはあると思っているのだけど。
その子のことは心配していない。いろいろと上司めんどくセーの不満聴きながらもやれてるしパフォームしているし、器用というわけではないが、乗りこなす力があると思っているから。どこかにいくイメージはあまりないが、きっとタイミング次第でなんか変わっていくだろう。
で、また俺の話に戻るが、会社はどこに行っても本質的には同じだなあという感じでもう転職したいところもないのだった。5回もしているのにね。
タイトルに書いたように「働く意味」とか働きがいとか考えてアレコレ悩んで40年という感じだったんだが、そういうこと考えること自体に意味はあまりなさそうだなあというのが、やっと持てている実感である。少なくとも会社員としては。
お金があがるとか、好きなビルとか街とか、ライフスタイルがハマりやすいとか、まあそういうのはあっても提供する仕事の価値がピッタリ合いますみたいなのはないんだろうな俺はという感覚でいる。所詮は他人のふんどし。だから、理想は自分でコノユビトマレできるようになることなんだろうなとは思っている。
そう考えると、なんだか逆に、働くの別にどうでもいいかなと思うようになった。じゃあ、復帰するか、ある程度休み中にやりたいことをやったら、という感じに今はなっている。やりたいことってのは、投資のルーチンつくるまでと、副業および個人事業のサイクルづくりという金回りのこと、あとは子供預けをいよいよと(おせえよ)、いちおういっこ、行きたい大学院の勉強をもう3ヶ月だけちゃんとやろうというのと。
あと、そうはいっても、50歳ごろにコノユビトマレと言えるようになっていたいなと考えるようになった。それが、なんか、働き方改革やら職場を元気に、みたいなことじゃないんだよなあーと。主夫になって思ったのは、働くことからみんないったん離れようということ。オカネに縛られるから働かなきゃというのが大抵の人の思っていることだけど、じゃあオカネの問題はずれたらどうしたい?ってこと。オカネの問題感じなくて良いなあと思えるようになって、コノユビトマレの行動にうつしたい。以上Dag.
(洗濯物干します)