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リアリティは時に身を癒やす

最近感じていること。リアリティなことのほうが時に大切というか、心にとって良いのではないかというお話。リアリティの定義はちょっとあいまい。身の回りに起きている現実、というよりは少し拡張して心的な出来事より出来事的な事実というかんじ。

なぜそう思ったか。心理学講義の受講とかを酔狂にしているのだが、そういう話とか、安倍狙撃の彼のTwitterやら一連の報道で、彼の内面の心的世界を推察するような報道とか、そういうのを取り込むと心にどんよりしてくる感じがあるから。見なきゃいいんだけど。

青春期、働きに出るまではそういう世界に生きていた。大人の手前のファンタジーというか、心的な世界でアレコレ妄想したりドラマ感じたりという、あるあるなのか、いまの若い人はもっとリアリティなのかわからないが、映画や音楽といったカルチャーとか、アカデミックでも現代思想、臨床心理学、そんで専攻した文学とか、いろいろと思念の世界に巣食っていた。

そういう面もたまには大事だなーというのは映画やら小説のエンターテイメントで感じることもあるし、物語で癒やされる面は大いにある。いまはその感受性がなくなってきてさみしい面もあるんだが、楽しいリアリティがあればファンタジーはいらないかもしれないね、というのは思ったりもする。

少し前ならリア充と言われたかもしれないこの感じ。自然のなかでキャンプ。折衷的にならソロキャンプ。アウトドアにふれる機会が増えれば多少は健全な精神世界もできるでしょう。強すぎるリアリティからの逃亡としてのファンタジーはもちろんあると思うのだが、穏やかな日々にはむしろ精神世界とか、臨床心理学的なものは自らを枷にはめるような重さもあると感じる。

心象世界に無縁ではないのだが、歳を取るごとにリアリティで精一杯になってくる面もまたある。だからいまやり始めている都市工学、まちづくりの世界というのはちょうどいい側面もあるのだろうな。公共性をリアルな側面で検討する。でもまちづくりは複雑系だから企業の意思決定までにシャープにはなりえない曖昧さもある。エンジニアリングというもののある種の魅力を齢40代にして感じてもいる。まあ、若い頃には無理だっただろう。思念の世界も楽しいしアレコレ妄想に溺れていられることは人生の楽しみでもある。ちょっと望郷の念のような、懐かしみつつ憧れつつ、でも戻るのも難儀だなというマインドが芽生えたので、リアルでやらなきゃなレポートも書かず助走的に書きつらつらな休日である。

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