【河田さんと私たち】の道行#1「轆轤師としての気概」
こんにちは。上出惠悟です。
今日は5月31日に75歳で逝去された上出長右衛門窯の轆轤師・河田安弘について書きます。普段から”河田さん”と呼んでいたので親しみを込めて以降そう記したいと思います。
先ずはご家族やご親戚の方へ心より哀悼の意を表し、河田さんのご冥福をお祈りいたします。
河田さんが上出長右衛門窯に入社したのは1972年のこと。私が生まれる10年前です。単身で石川県に移り住み、それから50年間ずっと河田さんは毎日轆轤を回していました。私が中学生の時、土曜日は半日で学校が終わるので、工場へ行って河田さんの仕事をよく傍で見ました。轆轤の仕事を見るのが好きだったこと、時々冗談を言ってくれる河田さんが楽しかったのです。私が剣道部に入ったこと(すぐに辞めてしまいましたが)、河田さんは柔道をやっていることや、長右衛門窯に来る前は東京で鉄工の仕事をしていたことなど話したのを覚えています。
私が家業を継ぐ決心をする少し前(大学3年生)、絵付が花形の九谷において、どうして目立たない轆轤師になろうと思ったのか訊ねたことがあります。すると河田さんは「九谷の轆轤を変えてやろうと思った」と言うのです。当時の私はすっかりその言葉に胸を打たれてしまいました。私は河田さんの職人として気概に感動すると共に、上出家の人間として長右衛門窯は果たしてそれに応えられているのか不安にもなりました。
河田さんは高い技術を持ちながらも、常に学ぶ姿勢を持っていて、私が出す難題にも「No」と言わず、一晩うーんと考えて翌日には答えを用意してくれました。ある時私はいつもように河田さんのところへ行き、「汲出碗をめくり返したように反対にできないか?」と相談をしました。覚えていませんが、河田さんはきっと「は?」という困った顔をしたのでしょう。
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上出長右衛門窯の道行
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