大阪人の重層的メンタリティについて
以下完全に個人の仮説考察なので気楽にしてください。
先日ふとしたことで大阪のお好み焼きと広島のお好み焼きの所謂「大広お好み焼き頂上決戦」に巻き込まれたんですが、若干の違和感を感じたというか、もしかすると大阪人と広島人は別のレイヤーで争っているのでは?と思ったので文字に起こします。
そもそも大阪人が他の地域の人たちから異文化人であるように見られている根本的な原因は、大阪の実際の文化風習ではなく、大阪人自体の所作にあるというのが僕が抱き続けている仮説です。
特に「そうそう、そうやねん。しらんけど。」の罪は非常に重い。大阪人にまつわる様々な文化(都市伝説レベルのものも含めて)の発端は、その殆どが「そうそう、そうやねん。」とごく安易かつ確信をもって彼ら自身が断言してしまう事に起因していると考えています。自業自得。
とはいえそれは悪意があるわけではありません。大阪人はその過剰なサービス精神故に、無茶苦茶な「大阪の人ってさー〇〇なんだよねー」を浴びせられても「いやいくら大阪でもそんなことしないよ!」と”無下に否定”ができない。だからこそ、「そうそうそうやねんほんまやねん」と言ってしまったあと、さらりと「しらんけど・・・」と呟いて罪滅ぼしをするわけですが、その文脈は他府県の方々にはもちろん理解されません。そこは大阪人が背負う業の部分でもあるので、誤解を抱えて笑顔で生きていくしかない。
前段が長くなりましたが、お好み焼き論争。そもそも大阪人は広島のお好み焼きを見て、「あんなんお好み焼きちゃうでー」といい、広島人は大阪のそれを見てまた同じことを叫ぶわけですが、さて。それ、どこまで本気で言ってますか?というのが違和感の本体です。
どうもそこにレイヤーの違いがあるように見えて仕方がない。大阪人側からの考察をすると、このお好み焼き論争に限らず、大阪人が言い争いを行う際には必ずどこかで「どうでも良さ」をひっそり抱えている場合が多い。極端な話をすれば、例えば、偉い人達が集まって、「お好み焼きの名称は広島にお渡しすることになりました。その代わり広島カープは阪神タイガースとの対戦するときは、未来永劫ピッチャーをアンガールズにすることになりました。」という発表があったとしたら、もしかしたら大半の大阪人は「え、ほんま?ええやんおもろいやん」と言ってしまいそうな気がするわけです。
そういう言い争いをしながら「面白いことがあれば別にそれでいい」「言い争いは面白いことが現れるための手段でしかない」みたいな思考の多重性が、大阪人の得体のしれなさの正体であるような気がしています。彼らは怒っていて「どないなっとんねんほんま!」とは言うが、「けしからん!」とはあまり言わない。けしからん、というのは不正義である、という事への怒りの言葉なので、かれらの多層な怒りの感情を表現するには底が浅すぎる、というわけです。怒りながら悲しみ、嘆き、そしてどこかでそれを笑っている。そういう多層性を表した言葉が「なんでやねん」であって、他の地域の方、特に東京の芸人さんなどが折に触れて言う、この言葉の懐の深さ、味の複雑さ、というのは、こういう大阪人のミルクレープのような感情の多重性の発露であるからです。
閑話休題。で、このあたりの違和感を感じたのは、その論争に参加していた広島県人2名が、どうも1名は大阪人とのやりとりを楽しんでおり、もう1名は”本気で”言い争っている、という情景が非常に斬新で面白かったからです。さらにこの本気で言い争っている人が「本当に広島風お好み焼きなんて言う言葉はけしからんですよ!」と言ってたのがそもそものこの文章の始まりであり全て。楽しんでいる広島人も、果たして「お好み焼きの名称は大阪に差し上げることになりましたが、そのかわり今後ずっと、サンフレッチェ広島の試合の時は、セレッソ大阪とガンバ大阪のキーパーは坂田利夫になります。」みたいになったときに、「おもしろいけん、それでええわ!」となる人がどれくらいいるかしら?という事をぼんやり考えています。
まだ広島なのでこの差は明確になっていないように思いますが、これがもっと異文化の、よりスマートで実直な思考文化を持つ「けしからん!」がベースの人達との論争が勃発したときに、そういった大阪人の特異な思考が露呈し、日本人をさらなる混乱のズンドコに陥れる事になるのではないかと危惧しているわけです。しらんけど。
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