月光浴を聞いて
曲名について
月の光を浴びる。イメージするのは夜の散歩でしょうか。しくしくと降り注ぐ月の明かりを身に受けながら歩く、日光浴とは違って冷たい感じがします。変わらないのは月も太陽も私達に影を落とす事。一心に光を受ければ受けるほど影もより濃さを深めます。
私達は月の中を生きているそうで、そこで過ごす時間を月光浴と形容していると。日々気付かぬうちに光を蓄え、同時に影を深めながら月日を重ねていくのですね。どうにも救いがないように聞こえます。
音について
静と動が強調されているように感じられます。「足して」から音数が増え、コーラス、ベース、エレキギター、ドラムが共振します。そしてイントロと同じアコギのリフが静へと引き戻します。
他の曲と比べてもボーカルの牽引力が強いように感じます。サビの雄弁なロングトーンはもちろんのこと、歌詞を述べると共に楽器隊の指揮をとっているかの如く、曲の芯が通してブレることなく歌に集中しているようです。
終わりのピアノのフレーズはテレパスのセルフオマージュでしょうか?よくよく聞くと都度繰り返されるアコギのリフもテレパスのフレーズを少しなぞっているように聞こえますね。2曲とも静謐、という言葉が似合うような感じがします。それを求めているのに抑えきれない、言葉にならないものがサビで溢れているみたいな。テレパスはボーカルは堪えていますが楽器が綺麗に暴発しているようです。
歌詞について
やはり生まれ変わりでしょうか?月日を足していく、つまり生まれては死んでいく、その後は?月日を溢れて、重ねて、それでも過ぎて、続いていくのでしょう。波の向こうに、岩の隙間に何かあるがわからない。白い砂から身体へ夜灯は移ろい、貴方が蹴っているのは地面であったのに、いつの間にか僕と共に水を蹴っている。曲の終わりで貴方はようやく気付く。ようやく、ということは僕は待っていたのでしょう。記憶がなくとも、何かを探し求め貴方に「既視感」を覚えている。
最後に
ヨルシカの楽曲は作品の核となるところはほとんど曲中でも明言せず、受け取り手の解釈次第でいくらでも変容し得ます。ですが曲の、歌の端々から本質のかけらがパラパラと注がれてきます。何を正解とするか、ではなく自分が何を正解と信じるか、ですね。正義と同じです。そしてその答えを人々がお互いに許容し合うことが理想ですがそう上手くいくものではありません。
幾度の月日を過ぎて、重ねた影にばかり目がいってしまうものですが、時折月を眩しく感じることもあります。そんな時にふと、私達は一心に光を渇望する。その光にヨルシカを照らし合わせる、これも一つの巡り合わせ、大切にしていきたいですね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?