煌めく感情にすら疲れたINTJ女の話

感情の揺れ動く様を、私は美しいと思っている。
例えば、別れの季節である卒業式。一度も泣いたことはないけれど。
卒業しても友達だよって泣く同級生の熱情なんて、理解できなかったし、しようとも思わなかったけれど。
溢れる感情を、私はいつだって眩しく見つめている。
特に、ポジティブな感情には強く惹かれる。

恋愛は感情市場だ。
恋愛という領域は、理性や理屈ではなく、心の通い合いなのだろう。
好きになってはいけないと、頭でわかっていても感情が抑えられないことも、
好きになれたらいいのにと願いながらも、気持ちがついていかないことも、
それらはすべて、感情の領域だからだ。

人が創り出した作品によって感動することはある。
動物の優しい心に癒やされることもある。
涙があふれるときも、思わず口角が上がってしまうようなときも、真顔になってしまうときもあるから、喜怒哀楽はきちんとある。
悲しいから泣いているのではなく、泣いているから悲しいと自覚するのだけれど。

水は循環し、雨となり、川となり、海へと注ぎ、そしてまた空へと戻る。まるで、愛が人から人へと伝わり、循環していくように。
水は絶えず循環し、姿を変える。愛もまた、形を変えながら循環していく。
愛を与えられる人は、同じく愛の水を与えてもらえる。自分が潤うから、更に返したくなる。

私は、きっとどこかで願っている。
誰もが理解しやすく、受け取りやすい愛情表現を身につけ、それを惜しみなく注げるような人間になれたらと。
しかし、それができずに、人との距離をとってしまう。感情の波に翻弄され、疲弊してしまう。
疲れていることも自覚できないから、ふと涙が溢れて止まらなくなる。
ときに大切な誰かを困らせてしまう。困らせたくない相手ほど。

他者の感情や思考を客観的に観察することは興味深い。 しかし、自分がその渦中に巻き込まれると、途端に疲れてしまう。

だから私は、本を読む。顔も知らない誰かの記事を読む。物語を紡ぐ。
それは、私にとっては、感情の渦から一時的に離れ、自分自身と向き合うための大切な時間なのかもしれない。
時に、私の記事を読んだ感想をいただくことがあるのだけど、その言葉に何度も救われた。本当にありがたいことだ。
顔も知らない誰かとの繋がりでも、水のように循環する何かがある。

感情の当事者にはいつだっていられない。

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