ODDTAXI
昨日コロナに対するワクチンを摂取した。
夜になると注射した付近の痛みが強くなり、眠れないほどだった。
眠れるまで、前から気になっていたオッドタクシーを見ようと思いたった。そうしたらいつの間にか全部見てしまった。
見終わった頃には外が少し白んでいた。
見ていて思ったことは、登場人物を人ではない生き物にして動かす描写のあるものは、作品全体の雰囲気が似てくるのだなということだ。
私はこの作品を見ながら中島敦の山月記を思い出した。
自己に対する尊厳や劣等感を内包し、どうすることもできなくなってしまうカバのなりをした登場人物がいた。
最近では世間体だけで活躍できる場が多くある。内実が伴っていなくてもメディアに取り沙汰されれば有名になることができる。
そうなってしまった際に自己に対する意識は軽薄になっていくが、外聞を気にする自己は、より自己愛が高まる矛盾に陥る。
それが最近の李徴なのである。
虎にはならないが猫はかぶっているかもしれない。
この話はオッドタクシーの中で少ししか取り上げられることはなかったが、非常に印象に残った。
また、カフカの変身と同様にこの作品でも芥川龍之介の書いた河童が思い出された。
最初にコミカルなシュールものであるという印象を持った人もいるのではないだろうか。誘拐事件の話がでて不気味であったり不思議な面もある一方で、登場人物がみんな動物であるので、すこし和んでしまう。
この手法はやはり河童だ。
人を出すのと出さないのでこんなにも印象が変わるのかと改めて実感した。人が出てくるだけで生々しさが異なる。
感情移入のしやすさが関わってくるのだろうか。
そんなことを考えながら、最終的にどうなっていくのかを見届けていた。ただ、最終回をみて犯人や隠されていた事実などを明かされても、これを見たかったんだという感じは不思議と起きなかった。
どちらかと言うとこのオッドタクシーという群像劇に引き込まれていたのである。どの登場人物が何を思いこの展開を見守っていくのか。それが気になっていた。
この作品は勧善懲悪というわけでもなく、誰がいいと言うわけでもない世界を表現していた。それが実際の世界なのである。
ある場所でバカと罵られるものは誠実ないい人であったり、どこかで頭脳明晰と褒められる人は、臨機応変に嘘がつけたり誰にも知られない場所で犯罪を犯していたりした。
善人でも悪人でもある世の中の人。
結局のところ何かに秀でているより丁度いい、バランスの取れた人が世の中には適しているのかなとも思った。
人の目を気にしすぎる人は優しいが鬱になりやすい。
人の目を気にしない人は強い自信と精神力を持っているが人を傷つけやすく嫌われやすい。
その中間が最も良いのかもしれない。
テストの点数や売り上げなどで評価され続けてきた人は、何かで突出した能力がなければならないという意識が強い気がする。
日本では特異な能力に対して強く評価しているような傾向がある。そのせいで、過度に人を気にしすぎる人が生産されていてる気もする。
誰よりもすごい能力というのも大事であるとは思う。
しかしながら1人ではできる範囲が決まっている。
その1人の枠組みを超えることができるのが他者との協力である。
せっかく社会を形成できる生き物なのだから、その力を無駄にしないようにしたいなと、オッドタクシー内の動物たちを見て感じた。
私が生きることができるようになります。