【小説】イマジナリー
「何にもない街を散歩しても、それなりに楽しむことができる」と、父は言った。コンクリートの割れ目に咲くカタバミ、口から出る白い息、車の窓を伝う水滴、日ごろ気にも止めないものに夢中だった私は、父の言葉にピンとこなかった。しかし、大人になるにつれ、日常生活は陰り、退屈になっていった。ガラスコップの水滴に人差し指を着けても、心に風が吹かない。変わらない景色を楽しむことのできる父は、ある種の才能があったのだろうとふと感慨にふけた。
空気が抜けるような音がして、扉が開く。バスに乗り込んだ少年は、逡巡なく運転手席の真後ろに座り、私の隣の席には誰も座ってこなかった。バスの振動が身体に伝わる。膝に乗せたカバンには、チョコレートの袋が洗面道具や着替えの隙間を埋めるように入っている。小旅行のお楽しみ、ではない。
高速バスが市街を抜けたころ、血が薄くなるような感覚が私を襲った。心臓の鼓動が高くなる。何かを追いかけているのか、追いかけられているのかわからない。このごろ、迫ってくる。気を逸らそうと、カバンを開け、チョコレートを出した。一粒ずつ丁寧につまんで、眺めてから口に入れる。窓からの景色は作り物、チョコレートだけが暖かく、生々しく見えた。
時間が抜け落ちた感覚がした。今住んでいる街では、見かけない色のタクシーが走っている。後ろに飛び去っていく市街地は、見慣れたものに変わっている。雲の隙間から、暖かい光がバスまで届いて、太ももに四角形の帯を描いている。
「終点、長崎駅前バスターミナル」
高速バスから降りてたどり着いた駅は、工事の白幕に覆われていた。辺りは砂っぽく、キリンのようなクレーンが、空に向かって伸びている。
「萌絵、こっち!」
美月が、路肩に停めた車から顔を出した。頬は赤みがかっている。
「久しぶり」
車のドアを開けると、助手席には、飴色のサングラスが転がっていた。足元には空のペットボトルが忘れたように置かれている。後部座席には、テーマパークのお土産袋や、ぬいぐるみ、丸まったマクドナルドの紙袋が左端に寄せられているのが見える。幼い子どもが急いでおもちゃを締まったような空間だった。
美月は、「下に落ちているものは、踏みながら乗って」と言うので、私は、サングラスを手に取り、足元に落ちているペットボトルにパンプスの足底をつけた。
美月は、私にタバコを吸っていいか聞き、ズボンのポケットから電子タバコを取り出した。
「バス疲れたやろ?」
美月はタバコを吸いつつ、片手でハンドルを握っている。
「いつもよりすいとったから、疲れとらんよ」
今日は、乗車駅の博多から長崎まで、隣の席には誰も乗ってこなかった。
「でも二時間バスに乗るのは疲れるよ。まずは、ご飯を食べよう」
「いつものファミレスにする?」
「執行猶予開けてよかったね」
私は、ファミリーレストランの入り口のゴミ箱に、美月の車のペットボトルを捨てた。ゴミ箱は空だったのか、寂しい音がした。ファミリーレストランには、課題を広げる学生や家族連れがいた。個人個人の島は独立して、独自の世界を作っている。
「そう、やっと運転できるようになったよ」
美月は、口角を上げて、なめらかな声で言った。
少し曖昧な記憶になっているが、三年前、大学四年生のころ、美月はお金を盗んで捕まった。盗みの理由は、生活に困っていたり、ストレスが溜まっていたりといろいろ挙げられるのだろうが、美月にはどれも当てはまらない気がした。それまでの美月の印象は、明るく、親友になれたことを有り難く思うような存在であった。何気ない話が出来て、お互いに気を遣い合える関係だったと思う。
拘置所から出てきた美月は何も変わっていなかった。「執行猶予が開けるまで、どんな軽犯罪でも起こすことはできない。だから、車の運転をしない」と私に言った。
チーズのいい匂いがする。グラタンとパスタを持ったウエイトレスが通り過ぎた。背筋をピンと伸ばしてせわしなく動き回っている。ふと、中学生時代を思い出した。塾の帰り、親の迎えの車を待つ間に寄った、コンビニエンスストアで考えた。ここで万引きをしたらどうなるのだろう。お客さんは私一人だけ。八〇円の値札がついた消しゴムは、手の中にすっぽりと隠れる。消しゴムが欲しい訳ではなかった。それでもその考えは頭から消えず、消しゴムを手に隠したまま店内を彷徨った。母の迎えの車が見えたとき、暖かくなった消しゴムを元に置いた。
衝動は再び現れた。高校時代、体育の時間に忘れ物を取りに、教室に一人戻ったときだった。机には着替えとカバンがバラバラに、個性的に並んでいる。誰かの財布を盗んでも、犯人はわからないのではないかと思った。ここには私しかいないのだから。しかし、お金を盗みはしなかった。
私は、私のことがわからない。でも、私と美月はよく似ている。
美月はハンバーグとステーキのページを忙しなく行ったり来たりしながら「美味しそう」と真剣に悩んでいる。私は、どれがカロリーが低く、美月に「それだけ?」と言われないメニューなのか頭を巡らせていた。