道端妄想劇場
道に落ちている食べ物のゴミって誰かの暮らしを垣間見ているようで、結構楽しいゴミだと思う。ちなみに、市ヶ谷駅にはウィダーインゼリー(ブドウ糖のやつ)がよく落ちていました。ゼリーを食べた受験生(仮)、今頃は家に帰って寝る前の英単語でもやってるのかな。単語カードは作る派なんだろうか。そうやって道端で妄想を始めるのは割と楽しい。どこかの家の夕飯のにおいみたいに、誰かの暮らしを垣間見ているような気がする。あら、会ったことないあなたも地に足つけて生きてるんですね!なんかすごい!みたいな。
人って群れていると全然人だと思えない。駅とか満員電車みたいに偶然で流動的なものであっても、友達と集まって食べる昼ごはんのような意図的なものであっても。片手で数えられる以上に自分以外の誰かがいると、集まってる人とどんなに長く関わっていたとしても少し緊張する。自分と相手、ではなく自分とその他大勢、って考えちゃうからだろうか。木からだんだん森になっていく感じがする。あるいは誰かと話してるんじゃなくて、共通の話題に玉入れしてる感じ。文字にしてみるとすごく情けない、けどそう思うことがある。でもそれって、会話の矢印が明確なコミュニケーションなら相手がわかるっていう浅ましさの裏返しなのかもしれない。
話している時、自分や相手は物事に対して明確な本音を持ってる、という都市伝説をまだ少し信じてしまう時がある。でもそれって多分不可能じゃん。少なくとも、自分で発した言葉に感じる嘘と本当って言葉は、現在にとってはさほど大きな意味を持たない。だって自分を作るのはほとんどが過去で、嘘をついたからわかった自分はその時を離れてみて初めてわかることだし。そもそも本当って言葉だって怪しいものだ。こころに関して言う時は、嘘の反対は信念とかにした方がいいんじゃないですか。だってどうやっても証明できないもん。今を生きてるのって実は8割ぐらいは過去の自分なのかも。残りの2割はは人によりけりで、私にとってそれは食事なのだ。
だからこそ、道端に食べ物のゴミという他人の現在のぬけがらが落ちていると少し嬉しくなるのかもしれない。ぜひ探してみて下さい。
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