エゴと愛の間
「それは親のエゴだ」
子どものことに関して、あれこれあった経緯をかいつまんで話したときに、うん十年来の付き合いのある人から言われた言葉で。
うちの子にとって人生のターニングポイントとなった事柄について、それをさせたのが親のエゴで、そこからおかしなことになってしまったというようなニュアンスだったように思う。
それを言われたのは夫で、夫がそうではないのだと説明しても繰り返し「いいや、やっぱりエゴだ」と断定されたらしく。
もしわたしが面と向かって言われていたら泣いていたか、食ってかかっていたか、もしくはその両方だったか。
年上の人だけど、「なにがわかるんだよぅ~」とつかみかかっていたかもしれないな。
エゴって…。
親の都合で、親の見栄で、親の希望で、子ども自身が望まないことを無理にさせたってことかい。
え、そうじゃないんだけど。
違うんだけど。
子どもの様子を見て、いろいろ悩み考えた末に決めたことだったし。
発端は親だけれど、親子ともに犠牲を払うわけだし、親の気持ちだけで突っ走れるようなことじゃなかったんだけどな。
うちの子のこと知らないくせに。
決めつけられることに憤りを感じた。
夫が「うちの子は~~だったから・・・したんです」と補足するも、
その人は「うちは(そんなことしなくても)ふつうに育ったけどなぁ」
またまたグサリ。
あーそっか。
ふつうにバランスよく生きてる人にはわかんないよな。
ふつうってなに?とも思わない人にはぜったいわからないわな。
もはやハラスメントだわ。
基本あんまり人のこと羨んだりしないんですけど、このときばかりは特大の「ふつうがうらやましいわ!!」の吹きだしが、右斜め上に浮かんだと思います。
花粉が飛んでいても、薬もマスクもいらない方たちをめちゃめちゃ羨望の眼差しで見ちゃうのと同じ感覚で。
ふつうにしていてふつうにふつうの中で生きられるなら、うちだってふつうがよかったさ、と。
もう一つには、
長年の付き合いのある人だったから、子どものタイプや気質が違ったとしても「そういうこともあるんだなぁ」と理解を示してくれるかも、という期待があったんですよね、どこかに。
まぁ一方的に思ってただけなんですけど。
そうじゃなかったんだ~というのが、ショックっていうか、よけいに落ち込むというか、増長する要因の一つなんだろうな、と分析をしてやり過ごそうとしてみました。
近い存在ってだけで、こちらから勝手にハードルを上げちゃっているのかも。
そもそも人はいろいろな考えを持っていて、そういう見解の人も一定数いるわけで、それが社会ってやつで、
その人が自分とは違った、ただそれだけのことで、長く知っているからって、価値観や考え方がなんでも一致するわけではないし、寄り添ってもらえるかはまた別の話ってことですよね。
第一波がここまで。
そちらとこちらで、切り離せたと思ったんですけど、しばらくすると、「本当にエゴじゃなかったと言い切れるのか?」という自問自答の第二波がやってきた。
少し前に、noteでフォローしている方の文章の中に「愛はエゴだ」というのがあって、なんだかよくわからないけどすごくズシンとくるフレーズで、ずっと心に引っかかっていたんですよ。
これまた同じ時期に、夫が「(子にしてやることは)自分がしたくてするだけだからエゴでしかない」みたいなことを発言して。
親(の愛)とエゴが、わたしのあっちとこっちで今つながった不思議〜なんて、ほくっと思っていたわけですよ。
子どものためを思って親が行動することがエゴであるとすれば、冒頭の「親のエゴ」もその通りなんですよね。
行き過ぎでなければ、とか、本人も納得のうえで、とか、いろいろエゴじゃない認定を受けられそうな条項をこしらえて「あれはエゴではない」とずっと当たり前のように思ってきたんですけど、
行き過ぎではなかったのか??本当に本人はそうしたいと思っていたのか??と問われるとなにも返せなくなってしまいそうになる、もろく儚く曖昧なもので。
わたしがセーフだと思っていた理屈も、人から見たらただの自己弁護なのかな~とか…ゆっさゆっさと揺さぶられました。
その境い目の線引きって、人によって千差万別で、正解があるようなないような、どれもが正解のような不正解のような、何も決められないドロドロ沼みたいなところにたどりつくわけですよ。
この数年、子どものことでは「ふつう」からはみ出したところで悩んでいて、話す相手をとても選んでいて、通じないだろうなとわたしが感じる人には口をつぐんできました。
「ふつう」ってなにさ精神の持ち主であったり、近い悩みを抱える人だったり。はなから理解してもらえそうな人にしか打ち明けず、「そうだよね~いろいろあるよね~」と同調してもらって、共感してもらって、励ましてもらって。
とても居心地のいいところに匿われていたのかなと。
久しぶりに「ふつう攻撃」を真っ向から食らって、ダメージを受け腹も立ったわけだけれども、世間とは、ふつうとは、大多数とは、そういうものだったな、と。
ふつうゾーンとの乖離があったことを思い出すという意味で、これはこれでいい経験というか、必要な経験だったのかな。
っていうか。
エゴかもしれないし、愛かもしれないし。
失敗だったのかもしれないし、いつか何かで実を結ぶのかもしれないし。
誰にもなんともジャッジできないことをそれぞれが己の考えであーだこーだ言っているだけなんじゃないかな、なんて急にドローン飛ばして俯瞰してみたり。
多種多様な人の住まう社会ではよくあることさ、違う考えの人と交差したときに、ちょっとスパークしたみたいなことだよ。
必要以上に凹むことでも目くじら立てることでもないさ、と自分で自分を落ち着かせ、奮い立たせる。