いつかきみに伝えたいやさしさの話
我が家には、二歳のムスメがいる。
彼女は生まれたばかりのころ、本当によく泣いていた。
わたしは子どもを産むまで、赤ちゃんはよく眠る生き物だと思っていた。三時間おきに授乳が必要だとは聞いていたけれど、三時間に一度の授乳を済ませてしまえば、あとは眠っているものだとばかり思っていたのだ。
甘かった。
おなかがすいたとぐずり、乳首に吸いつきながら眠りにつく。浅い眠りのなかでげっぷをし、口に乳首を含んでいないことに気がつくと、また泣きはじめる。その繰り返しだった。まいにち、まいにち。
赤ちゃんの泣く声は、人が不快に感じる周波数なのだという。
このころのわたしを追い詰めていたのは、ムスメの泣き声と、出産をするまで、まったく目を向けてこなかった"子育て中の母親にたいする世間の目"。
ベビーカーは邪魔、赤ちゃんの声は騒音…。
たしかに大型のベビーカーは幅をとるし、ムスメの不機嫌な泣き声は母親であるわたしにさえ耳障りなもの。
どれも、主張はおおむね賛同できるだけに、たいへん心ぐるしい思いだった。
よく泣く子を産んでごめんなさい。
泣きやませることのできない未熟な親でごめんなさい。
まだ社会のルールを守れないような赤ちゃんを、外に出してごめんなさい。
わたしたちの存在そのものが迷惑であるかのように思えて、不要な外出は極力控えた。
声が外に漏れないように、窓だってずっと閉めきりだった。
母子閉じこもりの日々は、着実に精神をむしばんでいく。
すっかり社会から切り離されると、まるで自分が機械になってしまったかのような気分だった。子どもを産み、育てるためだけの機械。
大人と口をきく機会が少なかったので、うまくしゃべることができなくなってしまった。
まだ二十代も半ばだというのに、髪の毛にはごっそりと白髪が混ざった。
つらくなって歯を食いしばる癖がついて、歯の根っこにひびが入ってしまうほどだった。
そんなわたしを救ってくれたのは、同じマンションに住むひとりの高齢女性だった。
「まいにち、お騒がせしてすみません」
昼も夜も、ムスメがなかなか泣き止まないので、たいへんな騒音だろうとわたしはいつも気がかりだった。そのくせ、「マンションを出ていくことになったらどうしよう」と先回りして怯えて、頭を下げることさえしてこなかったのだ。
しかし、女性の言葉はやさしかった。
「声が聞こえないほうがよっぽど心配なのよ。老人ばかりの建物じゃさみしいもの!疲れたらうちにお茶しにいらっしゃいね」
その言葉はじんわりと沁みて、あれから二年以上経ったいまもわたしの支えになっている。少しずつ外に出られるようになったのは、女性からもらったあのひとことのおかげかもしれない。
そうして外に出てみると、人から親切を受ける機会の多さにおどろいた。
ムスメを抱っこ紐に抱えて買い物をしているときに、「手伝いましょうか」と声をかけてくれた中学生がいた。低いところにあるものをとって、買い物かごにいれるお手伝いをしてくれた。不慣れな抱っこ紐でうまくしゃがめなかったので、これにはとても助けられたし、なにより声をかけてくれたことがうれしかった。
スーパーで買い物をすると、商店街のおじさんが自宅まで荷物を運んでくれる。自治体をあげた見守り運動の一環だそうで、これにもとても救われた。なにせ、十キロオーバーのムスメを前に抱いて、米やお茶といった重いものを買って帰るのはなかなかにしんどかったからだ。
マンションへ帰ると、エレベーターやエントランスで顔を合わせたご近所さんが、かならずあいさつをしてくれる。朝には「おはようございます」。昼には「こんにちは」。夜に別れるときには「おやすみなさい」と言ってくれる。おかげでムスメも二歳になったいま、当たり前にあいさつのできる子に育っている。
まわりからの親切をたっぷりと受けて、いまわたしたちは生きている。
頭を下げる機会はあいかわらず多いけれど、「すみません」よりも「ありがとうございます」と伝える機会がぐっと増えた。
親切を受けたときに、返す言葉は「すみません」「ごめんなさい」ではなく「ありがとう」がきっと互いに気持ちがいい。
ムスメはわたしと違うけれど、少なからずわたしの背を見て育つ。受けた親切を返していけるように、わたしはムスメにたくさんの「ありがとう」を伝えるすがたを見せたい。それからいつかムスメが母親になったときに、わたしたちが受けた親切のはなしを、めいっぱいしてあげたいと思う。
そうしていまわたしたちが受けているやさしさを、これから先につないでいけますように。