我が人生の岐路の話①
平凡な人生だな〜、この先はどうなるのだろう… と考える時間が増えた今日この頃。
振り返れば、ん?そうでもないなぁ…と思えてきて、ちょっと振り返ってみました。
人生の1番大きな岐路といえば、社会人として大人の世界に飛び出した時かもしれません。
それまではといえば…
今から60ウン年前に、雪深い東北地方で貧しい家庭の次女として生まれ、なかなか厳しい成長期を過ごしてきました。
初めての子として大切にされ、雪深い東北地方でも太陽を沢山浴びて色黒に育った姉とは逆に、
あまり手を掛けられずに育った為、私は小学校3年生の物心がはっきりする頃まで【くる病】という、今はかなり珍しい病気に苦しめられました。
あまりにも陽に当てられずに育ったせいでしょう。
くる病は、
ビタミンD不足からくる骨の病気です。
毎晩膝が泣くほど痛くて眠れず、紐で膝を縛って寝ていました。
酷くなるとO脚やX脚になったりするそうですが、不幸中の幸いで、調度良い脚の形に仕上がりました。
当時のエピソードとして母が今笑って話すのが…
新潟大地震がお昼に襲った時の事。
母はお箸とお茶碗だけを持って逃げたそうです。
父は自分だけ逃げ、わたし1人家の中に置き去りにされたとか。姉は保育園にいて無事でした。
随分時間が経ってから、わたしが居ない事に気づいたそうです。
まったく笑えません。
存在感薄かったのだなぁ…と悲しくなります。
その後も何かと姉優位の子供時代を送りました。
習い事は、姉はさせてもらえるのに私はさせてもらえない。
姉はどこかへ連れて行ってもらえても、足手まといだから私は留守番。
父が水泳を教えてくれたので姉は泳ぎが得意。
わたしは教えてもらえなかったのでカナヅチです。
特に父親に関わってもらえなかったようです。
5歳の時に貧しいあまりに都会へ引っ越した頃は、幼稚園にいかせて貰えず、家でプラプラしていました。ですから小学校へ上がっても、知っている子が1人もいない上、東北訛りがあったのでかなりしいたげられていた記憶があります。いわゆるイジメ対象でした。
そんな子供時代でしたが、ひねくれる事もなくメキメキ逞しくなりました。
くる病の為か低身長でしたが、よく男子と喧嘩をして、母が先生に呼ばれたりもしていました。
小さい頃からリベンジ体質だったように思います。
中学生後半になると背も標準になりましたが、イジメに反発すると先生に呼ばれて面倒なので、じっと息を潜める暗黒時代を過ごしました。
振り返りたくもない黒歴史です。
高校は、初めて親に自己主張をして自由に見えた女子校に通わせてもらいました。
3歳上の姉も当たり前のように私立に通っていたので、わたしの主張に親は反対できなかったようです。
自由に見えた女子校は、本当に自由でした。
当時、学校帰りに喫茶店に寄るのはNGでしたが、部活の先生と一緒ならOK. よく書道部の先生が着いてきて下さいました。
先生と友達には、本当に恵まれました。
当時、染めてもいないのに頭髪が赤っぽく、校則に引っかかったりもしましたが、母も巻き込み(親だから当たり前)かなり説得をして事なきを得る事もできました。
理不尽な事には、とことん抗いました。
そして、大学進学か就職かの転機。
これが人生で1番大切な岐路になったと思います。
私立高校に通わせてもらったとはいえ、裕福な家庭ではありませんでしたし、父が病気を患った事もあり、迷わず就職を目指しました。
大卒で就職するなら内定は難しいと考えられた大企業に、高卒なら入れそうだと言う目論見もありました。
結果は、
希望通りに就職することができました。
めでたし、めでたしでした。
社会への第一歩
やはりこれがその後の人生を大きく左右する事になるのですね。
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