南半球のハワイ?
南半球のハワイ?
到着してすぐに感じた違和感。
いやいや、思ったより人いないし建物がない。2002年のケアンズは今よりものどかで非常に静かな場所でした。
もちろんそれが良いところでもあると思います。ここで書いているのはあくまでも25歳の私が感じたことでケアンズをディスる気もありません。
空港も今まで行った中で一番小さい・・。心配になりながら到着し無事夫と合流。
1か月ぶりに会う夫はなんと6キロ瘦せておりびっくり。
当時夫の教育係を任された先輩がオーストラリアの方と結婚された日本人の方だったのですが、とにかく厳しく英語が苦手な夫が自分よりが許せなかったようで、英語でしか話してくれなかったりするスパルタ特訓を受けていたようです。その方はその後認めてくれてよい関係になり感謝してます。
しかも夫は自転車事故で前歯を折る大イベントを経験し、それもあり流動食しか食べられない日々が痩せを後押し・・。大変だったね。
よし、私も来たからには一緒に頑張ろう!ケアンズを好きになろう!と街を歩いたり、買い物したりしていたのですが、当時シティにはビーチがなくエスプラネードも干潟のみ。茶色い海を見てガーン。
デパートと呼ばれるものが一件ありましたが2階建て、しかも品物が少なく欲しいものはない。しかも店は木曜日のレイトショッピングナイト以外は5時に閉まる。休日は4時閉店と言う事実にガーン。
ハワイじゃないじゃん。
絶望を感じる私と反対に街にはたくさんの日本からの観光の方やワーキングホリデーの楽しそうな方々がいる。このギャップに鬱気味でした。
私には英語がある!と思ったのも束の間、ケアンズの英語は私が習ってきたアメリカ英語と違い、最初は何を言っているのか聞き取るのも難しく、こちらが言ってることも通じないこともありました。それだけが頼りだった私が打ちのめされたことは言うまでもありません。
日本で働いていた航空会社から空港の地上勤務のオファーを頂くまではかなり落ち込んで暮らしていました。
仕事が始まっても、オーストラリア人スタッフに
「この子すごいアメリカンイングリッシュなんだけどwww」
と笑われて英語コンプレックスは抜けず。良い上司のおかげでだいぶん持ち直してきましたがケアンズで生きていくことに必死でした。精神的に。
新しい仕事を必死で覚えてシフト勤務で夜中から働くこともある夫は当時どう思ってたのかな。いつも心配をかけていたように思います。支えてあげられずごめんね。
落ち着いてきてから夫と一緒の趣味を持とうとスキューバダイビングのライセンスを取ってみたり、ダイビングトリップに行ってみたりしましたが、魚があまり好きではなく(致命的)、辞めました。
お酒も飲めないのでパブとかで楽しんでいる人々との距離も感じる。うらやましいなー。日本での買い物、生活が恋しくてしょうがなく家で日本の音楽を聴いては泣いていた日々。
書けば書くほど私とケアンズの溝が深いのがわかってしまう。
周りの人達はみんなケアンズ大好きと言っているのに好きになれない自分が嫌い。私も好きになりたいのになれない・・葛藤はずっと続きました。
そして何が原因なのか不明のまま最初の子どもを流産、これがまた死ぬほど辛かった。
大丈夫じゃないのに大丈夫、大丈夫と言い続けた私をオージー友人とそのお母さんが無理にでもと観劇に連れ出してくれました。まだ「大丈夫」と言い続ける私に
「そんなの大丈夫じゃないに決まってる!」
と自分の経験から優しくいたわってくれたのを今でも思い出すと涙が出ます。私もそんな優しい人になりたい。おかげさまで少しずつ日常に戻れました。一緒にたくさん泣いてくれた夫にも感謝。
結婚式も企画しどうにか楽しもうと一生懸命でした。日本から家族・友人が来てくれた結婚式は本当に楽しかった。
そんなケアンズ生活1年半後、シドニーに転勤になります。当時はビジネスビザだったのもあり4年で日本に帰る気満々でした。
次は待ちに待った都会生活について書きますね。