小説「タージ・マハルに秘められたアーシフの物語」第2章
第2章: アーシフと大理石の夢
インド、ムガル帝国時代。アーシフは厳しい日差しが照りつけるタージ・マハルの建設現場に足を踏み入れた。彼の手には、古い木製の道具箱が握られていた。周囲には職人たちが働く音が響き、石を切り出すハンマーの音や、指示を飛ばす監督官の声が混ざり合う。
アーシフは、建設現場を眺めて深く息を吸い込む。彼が初めて大理石に触れたのは子供の頃、父親の工房でだった。冷たく滑らかな石の手触りが、彼にとっては夢そのものだった。彼は父から技術を受け継ぎ、より美しい彫刻を作りたいと願うようになった。そして今、彼はムムターズ・マハルのために建設されるこの壮大な霊廟で働くことになったのだ。
建設現場での出会い
アーシフは、太陽が砂埃とともに立ち昇る早朝、監督官に挨拶をして仕事に取り掛かった。タージ・マハルの建設現場は、重厚な音とともに息づいていた。彼の役割は、大理石の表面に繊細な装飾を施すことだった。白く輝く大理石の表面に、花の模様やアラベスク模様を彫り込むのは、単なる技術ではなく、深い芸術的な感性が求められる仕事だった。
現場では、大理石を切り出す音や金槌のリズムが絶えず響き、空気中に漂う粉塵が太陽の光を反射して、黄金色の微粒子が舞い踊っていた。職人たちの額には汗が滲み、彼らは夢中で自らの技を磨き続けていた。アーシフもその一人だったが、彼の心の中には、建設現場の喧騒とは違う、静かな不安が影を落としていた。
作業を始めて数日が経つと、アーシフは次第に同僚の職人たちと打ち解けていった。彼らはそれぞれ異なる技術を持ち寄り、この霊廟のために心血を注いでいた。隣で働く若い職人、サーファは、手を動かしながらアーシフに語りかける。「この霊廟は、愛を形にする仕事だと感じるんだ。シャー・ジャハーンがどれほど深くムムターズを愛していたか、俺たちの手で刻むんだ。」
アーシフはその言葉に微笑みながらも、心の奥に重くのしかかる感情を隠せなかった。愛を形にするという言葉は彼にとって美しい響きだったが、彼の心を占めるのは、病に倒れた自分の妻、ナヒードのことだった。家に帰ると、ナヒードは弱々しくも微笑みを浮かべ、彼を迎え入れた。その笑顔には、痛みと共に少しばかりの悲しみが宿っていた。
アーシフは、夜ごとに彼女の枕元で祈るのが習慣になっていた。「どうか、彼女に少しでも良くなる兆しを...」と。彼の指先から伝わる大理石の冷たさは、ナヒードの体温とあまりに対照的だった。彼女の手を握りしめるたびに、彼はその温もりが次第に薄れていくのを感じることが怖かった。
家の中では、風に揺れるカーテンが月光を受けてゆらゆらと揺れていた。ナヒードはそんな夜に、アーシフに向けて静かに語りかけた。「あなたの仕事は、本当に素晴らしいものね。あの霊廟に私たちの思いも刻まれると思うと、少し救われる気がするわ。」
彼女の言葉を聞くたびに、アーシフの心には痛みが走った。彼は何も言わず、ナヒードの手を握り返すだけだったが、胸の奥で彼女のために何かを成し遂げたいという思いが燃え始めていた。タージ・マハルに込められた愛の物語を、自分の手で少しでも形にすることで、彼女の苦しみを少しでも癒せるのではないかと。
翌朝、アーシフはいつもより早く目を覚まし、再び大理石の前に立った。太陽が昇り、朝の光が彼の顔を照らす中、彼は彫刻刀を手に取り、花の模様を一心に彫り始めた。その刃が大理石に触れるたび、彼の心にはナヒードへの想いと、サーファの言葉が重なり合って響いていた。
「愛を形にする仕事」――その言葉の重みが、彼の手を通して少しずつ形を成していくように感じられた。大理石の冷たさが、彼の中の熱い感情と交錯し、彼の作業はいつもよりも一層力強く、美しいものとなっていった。
家族への想い
その日、作業を終えて家に帰ると、アーシフは妻のナヒードと娘のライラが待つ小さな家の扉を開けた。家に足を踏み入れると、台所から煮込み料理のほのかな香りが漂い、温かみのある空気が彼を包み込んだ。小さな台所では、ナヒードが弱々しい手つきで簡素な夕食を準備していた。湯気が立ち上る鍋の中には、スパイスの香りが染み込んだ煮込み料理が揺れている。
ライラは床に散らばった木製のおもちゃで遊びながら、無邪気な笑い声を響かせていた。その笑い声は、彼の疲れた体を癒すかのように心地よく響き渡る。アーシフは家族が待つこの家に帰ることが、どれだけ自分にとって救いであるかを痛感する瞬間だった。
しかし、ナヒードの顔色は日に日に青白くなり、その変化を彼は痛みを持って見守っていた。アーシフは彼女のそばに歩み寄り、細くなった彼女の手を優しく握りしめる。「今日の具合はどうだい?」と彼は問いかける。ナヒードは疲れた顔にかすかな微笑みを浮かべながら、かすかに首を振った。「あなたが帰ってきてくれると、それだけで元気が出るわ。でも、無理しないでね。あなたの仕事は大事なことだもの。」
アーシフはその言葉に微笑み返したが、その裏で心が締め付けられるような思いに駆られていた。彼がタージ・マハルで得る収入は、家族を支えるには十分とはいえず、ナヒードの治療費を賄うには程遠かった。彼女の手を握り返すと、その手の冷たさに自分の無力さを痛感した。それでも彼は、日々の生活とナヒードの病を抱えながら、タージ・マハルの建設に心を注ぐしかなかった。
夜、ライラがベッドで深い眠りに落ちた後、家の中は静寂に包まれた。月明かりがカーテンの隙間から差し込み、ナヒードの細い肩を淡く照らしていた。彼女の眠る姿を見つめながら、アーシフは心の中で祈りを捧げるように呟いた。「どうか、彼女のためにもう少しだけ時間を与えてくれ。彼女と、ライラと、もう少し一緒にいたい。」
その夜、ナヒードが突然咳き込む音が静かな家の中に響き渡った。アーシフは慌てて起き上がり、彼女に温かいお茶を淹れた。その小さな行為には、彼女への愛情と、不安に押しつぶされそうな心が込められていた。ナヒードが微笑みながらお茶を一口含むと、アーシフは彼女の手をそっと握った。ナヒードの目には、日々の生活と病への不安が入り混じりつつも、アーシフに対する深い愛情が宿っていた。
アーシフは彼女の手を離さないようにと、静かに自分に言い聞かせた。「タージ・マハルは、皇帝の愛を形にするものだ。だが、私がこの手で刻む模様は、私自身の愛の欠片でもあるのだろうか。」彼はそう考えながら、再びナヒードの寝顔を見つめ、彼女のためにも明日もまた仕事に励むことを決意した。
翌朝、太陽が昇る前に、アーシフは再びタージ・マハルの建設現場へと向かった。彼の心には、ナヒードとライラの存在が常にあった。彼が大理石に刻む模様の一つ一つに、彼らへの愛と、未来への小さな希望を込めているのだと感じながら、彫刻刀を握る手に力を込めた。
初めての葛藤
アーシフがタージ・マハルの建設現場に戻ると、皇帝シャー・ジャハーンの新たな指示が職人たちに伝えられていた。「霊廟の装飾はより美しく、細やかにせよ。ムムターズの美しさにふさわしいものでなければならぬ。」その命令は、職人たちに誇りと挑戦を与えるものであり、彼らはその指示に応えるべく、仕事に熱を入れた。
太陽の光が降り注ぐ中、大理石の白い表面が眩しく輝いている。日差しを反射する大理石の粉が舞い、職人たちの額には汗が光っていた。アーシフもまた、その光景の中に立ちながら、彫刻刀を手に取る。周囲の職人たちの手際よい動きと熱気を感じつつも、彼の心は冷たい大理石のように重かった。
彼はひとり静かに大理石の前に立ち、彫刻刀を握りしめる。「愛を形にする」というシャー・ジャハーンの言葉が、彼の胸の奥に響いていたが、その意味が彼には理解できなかった。彼にとって、愛とはこの霊廟ではなく、家に帰れば待っているナヒードとライラ、彼らの笑顔や日々のささやかな暮らしそのものだった。だが、目の前にあるのは冷たく無機質な大理石だけであり、彼の内側に渦巻く感情を表現するにはあまりに遠い存在だった。
彫刻刀が大理石に触れるたびに、アーシフの心にはナヒードの優しい笑顔が浮かんだ。彼はその笑顔を、この冷たい石に刻み込むことで、少しでも彼女への愛を表現したいと強く願った。しかし、シャー・ジャハーンの命じる「愛」を表現することと、自分の中にある愛をどう形にするか、その間に広がる大きな隔たりを感じずにはいられなかった。
彼は彫刻刀を握りしめた手に力を込めながら、自問する。「私の手で刻むこの模様が、本当に愛を伝えるものなのだろうか?」シャー・ジャハーンの愛のために作り上げるこの霊廟は、皇帝とムムターズのためのものであり、自分の愛や家族のためのものではない。だが、それを自分の仕事として受け入れるしかないという現実が、彼の心を締め付けた。
家に帰れば、病に倒れるナヒードと無邪気に笑うライラが待っている。彼にとっての愛は、彼らと共に過ごす時間や、ナヒードのために淹れる温かいお茶のようなささやかな行為に宿っていると感じていた。それでも、彼の手には今、彫刻刀しかなかった。彼の心の中で、愛と仕事の間の葛藤が激しく揺れ動いた。
シャー・ジャハーンの存在は、彼にとって巨大な影のように重くのしかかる。皇帝の言葉は絶対であり、彼の命令に従うことがアーシフたち職人の使命だった。だが、アーシフの心には、皇帝の愛のために自分の愛を犠牲にすることへの葛藤が渦巻いていた。自分の愛を守りたいという気持ちと、皇帝の命令に従うべきという職人としての誇り、その二つの間で彼は揺れていた。
夜が更け、現場の作業が終わる頃、アーシフは自分の手が震えていることに気がついた。何度も大理石に彫刻刀を振るいながら、「これがナヒードへの愛を伝える手段なのか?」と自問し続けた。だが、その疑問に対する答えは見つからず、心の中に残るのは漠然とした不安と苛立ちだけだった。それでも、彼はナヒードとライラのために彫り続けるしかなかった。
彼の手が刻む模様がどれほど美しくとも、それが愛を形にするものなのか、彼自身は確信を持てないままでいた。しかし、彼は自分の手で作り上げる模様に少しでもナヒードとライラへの想いが宿るよう、心の中で祈りながら彫り続けた。
未来への希望
アーシフは、夜の静けさの中で日記を開き、葛藤と希望を記した。「この石に刻む模様が、いつか誰かの心に触れることがあれば、私の愛がそこに存在するのだろうか。そうであるならば、私はこの霊廟にすべてを捧げる。」
夕日の光が白い大理石に反射し、まるで金色の輝きが壁全体を包み込むように広がっていく。アーシフは、その美しさに一瞬心を奪われた。広がる光の中で、冷たい大理石の感触を確かめるように手を伸ばす。その冷たさは、指先からまるで彼の心臓まで伝わってくるかのように感じられた。
彼は大理石を見つめながら、自分の心の中で愛の本質を考え続けていた。愛とは形を持たないものだと彼は知っていた。それでも、この霊廟を通じてその愛を伝えたいと強く願っていた。「もしこの模様が、未来の誰かに届くのなら、それだけで十分だ」と、彼は自分に言い聞かせた。
ナヒードの微笑みが、彼の心の中で希望の光となり、彼を前に進ませた。彼女が病に倒れた姿を思い出すたびに、その苦しみを少しでも和らげる手段が、自分の手で作り上げるこの模様にあるのではないかと信じたかった。「この手で刻む模様が、彼女の苦しみを少しでも癒せるように」と、彼は祈り続けた。
アーシフは彫刻刀を握りしめ、冷たい大理石に愛の形を刻み始める。彼の手が滑らかに動き、彫刻刀が大理石の表面に深い線を描くたび、彼は自分の心を模様に託すように感じた。「この一線一線に、私の想いを込めるんだ」と、彼は心の中で誓った。
彼の手元で、花の模様やアラベスク模様が徐々に浮かび上がり、その繊細な曲線と細部の美しさが彼に小さな満足感をもたらした。細かな花弁を彫り上げるたびに、彼の中で何かが少しずつ変わっていくのを感じた。
彼は目の前に広がる白い大理石の壁を見つめ、いつかこの霊廟を訪れる人々が、自分の残した模様を見て何かを感じてくれることを祈るようになった。「私の名前が記録に残らなくても、この模様が語るものが時を超えて生き続けるなら、それでいい」と、彼は心の中で強く願った。
ナヒードとライラのため、そして自分自身のために、アーシフはこの仕事に命をかけようと決意する。その決意は、彼の心に小さな希望の火を灯した。最初は微かな火だったが、それは徐々に大きくなり、彼の内面を明るく照らしていく。その火は、暗闇の中で新たな光を見つけようとする彼の心を支えていた。
彼は、彫刻刀を再び大理石に当て、丁寧に一つ一つの線を彫り続けた。未来の訪問者に、自分の想いが届くようにと願いながら。その中には、ナヒードへの愛と、ライラへの希望、そして自分の心を刻みつける強い決意が込められていた。
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