太陽と月で文芸部
「今日が最後の部活ね!」
ガラガラスターン! と勢いよくドアを開いて仁藤真由美が入ってくる。腰まで下ろした自慢の黒髪が、バサッと豪快に広がった。
二月の第四金曜日。高校卒業をあと数日に控えた俺と仁藤は今日が最後の部活動日となる。
「そうだな。俺らの、最後の部活動だ」
俺がそう答えると、仁藤は目を爛々と輝かせて詰め寄ってくる。バンッとテーブルを叩いて身を乗り出す。 数センチ先にまで迫った顔、その勢いに僕の眼鏡がずり落ちる。
「さあ部長! なにするの!」
子どものような無邪気さで迫ってくる仁藤。最後の部活動はなにかおもしろいことをする、だなんて事前告知をした覚えはないのだが。
「いつも通りだ。俺たち文芸部は、いつだって本を読み、本を書いてきた。今日は集大成として小説を書くぞ」
俺が言う。文芸部として三年間、俺らはこの中央にある長テーブルと壁際の巨大な本棚以外はなにもないこぢんまりとしたここで、高校生活という青春のほとんどを捧げてきたのだ。
「えー、なにそれ。つまんないわよ。せっかく最後なんだから、こうワーッとパーティーとかパーッとパーティーとかしましょうよ」
パーティーばっかりじゃないか。仁藤に同調するように、部室の隅に置かれた石油ストーブがブゥと間抜けな音を出す。
「先輩、せっかくですから書きましょうよ。最後なんですからー」
俺の左から加勢してきたのは二年生の多部だ。短く切り揃えた茶髪が似合う彼女もまた快活な性格で、勢いだけで言えば仁藤に引けを取らない。とはいっても、キラキラと輝くような笑顔がよく似合う多部と、自分の欲に忠実なギラギラとした瞳を持つ仁藤とではまったく違うのだが。
「席につけ、仁藤。今日のテーマを発表するぞ」
「ワクワクですねー。ほら、先輩座ってくださいよー」
俺と多部に急かされて、仁藤もようやく席についた。俺の向かいの席は三年間変わらなかった仁藤のポジションだ。
「せっかく最後の部活動なのに……。それで、テーマはなんなの?」
「ふっ。最後の部活動、書いてもらうテーマは『卒業』だ」
仁藤がほぉと呟き、多部はほわぁとよくわからない声を漏らした。
「自分の体験から、卒業をテーマに小説を書く。文量に規定はない。制限時間は三時間後だ」
仁藤が不敵な笑みを浮かべる。
「いつも通りね。一番に書き上げてさっさとパーティーするわよ」
「一人でパーティーするんですか?」
多部の一言に仁藤がさらに不敵に笑う。それ以上口角をあげれば立派に妖怪になれそうだ。
「もちろん多部ちゃんもよ! 隣でパーティーやっていたら多部ちゃんも部長もきっと混ざらずにはいられないはずよ!」
いったい誰がその一人空回りパーティーに混ざりたくなるのか甚だ疑問だ。
「いいから。パーティーやるにもまずは書いてからな。ほら、始めるぞ」
部室にかけられた時計を見ると、もうすぐ午前十時になろうとしている。
「『卒業』かー。難しいわね」
仁藤が身体を伸ばしながらぼやき。
「私はもう書くこと決まりましたけどねー!」
多部がはしゃぎ。
「楽しみにしているよ」
俺の一言で十時になった。
三台のノートパソコンが同時に起動する。重なる三つの起動音は、まるで始まりのベルのように。
そのベルが鳴って十分と経たない頃だった。仁藤がまっさきに集中を切らした。
「あーだめ。だめだめだー」
そう言って、バンザイしながら椅子にもたれかかる。ぐいーっと伸びて、戻る反動で席を立った。
「ちょっとその辺歩いてくるわね」
言うが早いか、仁藤はそのまま頭を掻きながら廊下に出ていった。あの調子ではまったく進んでいないのだろう。じっとして頭を動かすより、ああして動いていたほうがいいのだろう。
「仁藤先輩、全然書けてないみたいですね」
俺の隣で軽快にキーボードを鳴らしながら多部が話しかけてきた。見れば、仁藤の出ていったドアのほうを見ている。いくらブラインドタッチができるとはいえ、器用なものだ。
「ああ。あいつ書くのは苦手だからな」
仁藤はアイディアばかりは湯水のように湧き出るのだが、それを小説として書き上げるのはてんでだめなのだ。だいたい、出てきたアイディアも妄想が広がるうちに暴走して、仁藤の頭の中で完結するのだ。自分のアイディアに振り回されてちゃ世話ない。
そんなこともあって俺は、どうして仁藤が映画研究部などではなく文芸部に入ったのか、入部初日にこの部室で出会った時から不思議に思っていた。今の映研は、撮影用のカメラをもって旅行に行っては記念映像を高画質で残すという途方もなくパーティーな集団になっているときく。仁藤などぴったりではないか。
「仁藤は卒業まで掴みきれない奴だったなあ」
「どういうことですか?」
俺のぼやきに、多部が不思議そうに反応する。
「いや、わかりやすそうでどこかまったくわからない部分がはっきりとあるっていうか……んー」
説明しようにもどう言っていいかわからない。
多部は「ふうん」と小さく呟くと、ふっと息を吐いて再びキーボードを打ち始めた。
キーボードをカタカタとテンポよく鳴らしはじめた多部は、しかしすぐに手を止めた。そうしてしばらく黙ったままで。
「仁藤先輩も部長も、もう卒業なんですね」
ふと、言った。独り言のようなつぶやきは、しかしはっきりと俺の耳に残った。
そう、卒業だ。……この文芸部とも。
中学校で不登校になって家で読書ばかりしていた俺に、高校だけは出てくれと懇願してきたのは母親だった。
中学生だった頃、勉強は退屈で、教科書の通りにやっていればなんだって解けた。学校で友人も作れず、図書室にしか行く当てのなかった。
ひねた性格だった。「家で本を読んでいるほうがよっぽど有意義だ」と言って、義務教育に甘えて不登校を続けた俺は、人前に出るということを拒絶した。
それでも受験者の少ない二次募集で合格し、高校に行くことを決めたのは母親への罪悪感だった。どうせすぐに行かなくなる。それでも、実の息子に頭を下げて頼み込む母親を見てなにも感じないほど、俺は腐りきることができていなかった。
高校に入って、人と関わらないために分厚い本を読むことでバリアを張っていた俺に対して、平然と話しかけてきたのが仁藤真由美だ。
突然だった。「なに読んでるの?」でも「みんなと遊ぼうよ!」でもなく、「この紐持ってて!」と言った仁藤に嵌められた俺は「先生が教室の入り口でズコーッ事件」の犯人とされ、反対側で紐を持っていた仁藤と並んで怒られた。怒られながらクックッと笑っていた仁藤の顔を、俺は本当に恨めしく思ったものだった。
そして、それ以降、仁藤はことあるごとに俺を巻き込み、仁藤と俺は否応なく、悪ガキコンビのように学年でも認識されることになった。
何故、仁藤が俺に目を付けたのか。おおよそ、俺なら断らないだろうと踏まれたのだろうと思っているが真偽は定かではない。しかし現に俺は、断れなかった。とはいえ目の前にワクワクを(自分で)ぶらさげた仁藤の勢いの前で、きっぱり断れる奴などいるのだろうか。俺は知らない。多部以外。
そうして、仁藤のせいで、本当に仁藤のせいで、クラスで過ごしづらくなった俺がその旨を仁藤に言うと、彼女は考えることもなく「じゃあ居場所をつくろう!」と言った。
俺が読書好きだと知っていた仁藤は、次の日には「文芸部」と荒々しい文字で書いた部活動申請書を職員室に提出していたのだ。
その行動力にもそうだが、部活動として最低限必要な部員五名――要するに俺と仁藤を除いた三名だが――を集めて署名させ、さらには文芸部発足と同時に「もう部室にはこなくていいわよ!」と実質解雇通知を突きつけたのには驚かされた。これほど見事な人数合わせがあるだろうか。
余談だが、その使い捨てトリオは今でも校内で俺とすれ違うときには「よう! こき使われてるか?」などと冷やしてくる。
だが、文芸部を作ってからの仁藤は存外おとなしかった。
「あなたの居場所なんだから、あなたがトップよ!」
そう言って俺を部長に任命すると、その後は従順な文芸部員として俺と今日まで活動してきた。クラスでは悪ガキの仁藤も、文芸部にくればおとなしく本を読み、たまに僕を冷やかしては、「じゃあまた明日ね!」と帰っていくのだった。
ただ、本は読めても書けない仁藤は、「ちょっと文芸部らしい活動もしてみたいなーなんて」と俺の執筆活動の提案には難色を示した。そんな日には、今日のように駄々をこねるがお決まりだった。
そして、文芸部発足から半年ほど経った春。文芸部に、新風と嵐が同時に訪れた。
多部未来という後輩がやってきたのだ。
今でこそすっかり俺とも仁藤とも馴染んでいる多部も、来た当初はてんやわんやだった。主に俺が、だが。
「タベミライです!」
数回のノックの後、新入生らしい躊躇いなど微塵もみせず颯爽と部室に入ってきた多部がそう自己紹介するのを俺はただ唖然として聞いていた。今でも忘れない。
俺は呆然としたまま「タベミライ」と彼女の言葉を口にした。何度かそうして、ようやくそれが彼女の名前だと理解した。
もうその時には、仁藤が多部に席をすすめていた。俺は世話好きでもある仁藤が新入部員を歓迎し、さっそくおしゃべりでもしているのだろうと思っていた。甘かった。
仁藤は、多部に対して面接をしていたのだ。それも、趣味や特技、果ては人生とはなにかまで、なにを知りたいのかこっちが気になってくるような内容だった。しかも、仁藤はそれに留まらず、多部の同級生から中学の様子やクラスでの様子を聞きあさる始末で、結局俺の「いい加減にしろ!」の声が飛ぶまで仁藤は止まらなかった。
その後、仁藤と多部は二人きりで話し合い、和解したらしい。和解交渉がどのように行われたのか俺は知らない。それでも、それ以降の二人はまさに先輩と後輩の手本のような意志疎通っぷりで、仁藤がひっぱり多部が盛り上げる。仁藤暴走という嵐が止んだあとの文芸部は、多部新風によって、俺を巻き込んでさらに活気づいたのだった。
「部長、手止まってますよー!」
多部の声でハッとした。卒業を目の前にして思い出が去来したのか。
時計を見ると、十時四五分を指している。思ったよりも呆けていたようだ。『卒業』なんてテーマにしたもんだから、ついつい思い出旅行に飛んでしまう。
そこまで思って俺は、自分に懐かしむような思い出があることに気づいて苦笑する。中学生の頃の記憶なんて、自宅の天井と読んでいた本の内容しかない。図らずも仁藤と多部に救われていたように感じた俺は、気恥ずかしさを飛ばすように頭を振って、もう一度パソコンに向き合った。
「そういえば、多部は書くこと決まってるって言ってたよな」
ふと、数十分前のことを思い出して尋ねた。
「はい! 『卒業』ってきいた瞬間にこれを書こうってすぐ思いつきましたよ」
大した奴だ。
「部長はどうですか?」
「俺は、まあなんとか書けそうだ。最後だし、中途半端なのは出せないからな」
俺がそう言うと「おお。キアイ入ってますねー」と多部が茶化す。うんうん、とわざとらしく頷いて多部が続ける。
「そういえば、先輩たちが……」
そこまで言ったとき、部室のドアが吹き飛ぶように開いた。左腕を横一線、仁藤が立っていた。
無言のまま、仁藤は大股で多部に近づいていく。今日来た時のように、テーブル越しに今度は多部に詰め寄った。
「ちょっと多部! あなた授業は?」
その一言で、俺も「あ!」と思い出す。俺たち三年生は自由登校に入っていて学校に来るもこないも自由だが、多部はまだ二年生。この時期はまだ授業があるはずだ。
仁藤と俺の視線を受けて、多部はキャキャキャと笑った。特徴的すぎる彼女の笑い方はたまにギョッとする。
「今日は休みですよ私。風邪ひいて熱も出ておまけにもげそうなくらい頭が痛いって」
次の瞬間には、仁藤も笑っていた。こちらはわっはっはと豪快だ。
「なんだ仮病ね! やるじゃない多部!」
なんだ仮病ね! ではないと思うのだが。だが、多部が授業一日分くらいで揺らぐような成績ではないことは俺も知っている。なんでもそつなくこなす多部は、先生の間でも褒めあいが起こるほどの優等生だ。俺も職員室で何度か噂話を聞いたことがある。ちなみに、なんでそんな優等生が仁藤なんかと……という噂を聞いたこともある。
「じゃあ休んだ分ちゃんといいもの書かないとな」
俺が煽ると多部は、今度はニヒヒと笑う。
「もちろんですよー! 先輩たちこそ後輩にかっこ悪いところ見せられないですよ!」
臆することなく挑発してくる。こういうところは入部当初から変わらない。
「あー! すっかり忘れてたわ。小説書かなきゃ!」
仁藤が吠える。忘れないでほしい。
「大丈夫よ部長。もう書くことは決まったから。ただぼーっと歩いてきたわけじゃないんだから!」
そんなに不安そうな顔でもしてたのだろうか。仁藤が俺の顔を覗き込みながらにかっと笑って言う。
「ああ、期待してるよ仁藤」
俺が言うと、満足そうに頷いて自分の席へ座る。再びパソコンに向かう仁藤は、なんだかすっきりした顔をしているように見える。
「そういえば」
と、俺は多部のほうに顔を向ける。
「さっき、仁藤が入ってくる前になにか言おうとしてなかったか?」
俺がきくと、多部はむぅっと膨れた。珍しい表情だ。
「部長、そういうこと今訊くんですかー」
ちょっと怒ったような口調。どうしたんだろう。あまり怒るような奴ではないからちょっと焦る。
「いいですか部長。もし私の言おうとしていたことが、仁藤先輩に聞かれたくないことだったらどうするんですか」
そう言われて、やっと理解できた。「あー……」とばつの悪さから何も言えない俺をみて、多部が最後にとどめを刺す。
「部長は、そういうデリカシーってもんがないですよ」
返す言葉もない。
うなだれていると、多部が明るい口調に戻って言う。
「まあ、別にそんな話じゃないのでいいんですけどね」
「なになに、なんの話なの?」
そこに仁藤も混ざってくる。多部が「じゃあ改めて言いますね」と仕切り直す。
「先輩たちが、卒業したら文芸部ってなくなるんですよね。そう言いたかったんです」
多部の言葉に、俺も仁藤も目を丸くして驚いて、そうして気まずい沈黙が流れた。正直、忘れていた。自分の卒業しか見えていなかった。残していく者を考えることなんて今までなかったから。
「私は」
俺も仁藤も何も返せないでいると、多部が続けた。
「私は、文芸部を継ぎませんよ」
決意とも宣誓とも似ているその言葉に、俺も仁藤も言葉が出なかった。
「もともとは、仁藤先輩が部長のために作った。それがこの文芸部なんですよね」
多部だけが喋り続ける。
「先輩たちが卒業して、私だけが文芸部に残る。私はそんなのは嫌です。つまらないじゃないですか」
多部はいつもの快活さは鳴りを潜めて、静かに、俺たちとしっかり向きあって語る。
「私が文芸部に入ったときのこと、覚えていますか」
問いかける。今まで固まっていた仁藤が口を開いた。
「……もちろんじゃない。あなたがきて、いろいろ大変だったんだから」
さすがの仁藤も、この展開には戸惑いが見て取れる。いつもは部室を大きく震わせるような声も、すっと馴染むように耳に届く。
「どうして、実質先輩たち二人しかいないこの文芸部に私がきたのか知っていますか」
多部が語りかけてくる。俺はただ、多部に向き合うしかない。
「二人の噂を聞いたんです。とてもうるさい二人がいるって。学校ではイタズラばかりして、しょっちゅう先生に叱られているような人たちだって」
多部はショートカットの髪をさっとかきあげ、話を続ける。
「今日まで学校では優等生として努力してきました。とはいっても勉強はできるし、運動もできる。適当に喋っておけば友人もできたというだけですが」
俺も仁藤も、また黙りこくっている。
「優等生ってつまらないんですよ」
ストーブがまたブゥと鳴る。一つ息を吐いて、多部が続ける。
「中学はつまらない毎日でした。高校までつまらないなんて嫌だ。だから、噂をきいて文芸部にきたんです。……二人のおかげで、本当に楽しかったです。感謝しています」
初めて聞く理由だった。そういえば多部のことはあまり知らなかった。プライベートなことをそれぞれ詮索しなかったからだ。俺の過去は仁藤だって知らない。
多部が一通り喋ったところで再び沈黙が訪れた。ストーブが動く音以外すべて止まったこの部室。その沈黙を。
「そうね、そうだったわね」
仁藤が、破った。
「お前、知っていたのか」
思わず、口をはさむ。
「多部と二人のときにね」
「和解交渉のときか」
ふと思い浮かんだ。和解交渉の時、そういうやりとりがあったのではないか。
「和解交渉って? あ、ひょっとしてあの時のことか。部長、そんな風に呼んでたのね」
クックッと笑い、仁藤が続ける。
「うん、そうね。それで多部、その私たちがいなくなるからあなたも引退するっていうの?」
仁藤の問いかけに、多部は毅然と答える。
「はい。もう、文芸部にいる理由がないです」
その答えに、今度は俺が言う。どうしても、言わなければいけない気がした。
「多部。それじゃお前、文芸部がなくなったらまた日々つまらないと言って過ごすのか」
ブブッ。ストーブの音。
合わせるように、多部の表情が崩れた。
「大丈夫ですよ部長。私は優等生ですよ。舐めないでください」
表情をわずかに歪ませて、多部が言う。
「今まで通りつまらない日々を過ごすことだって簡単です。文芸部で十分楽しませてもらいましたもの」
そう言う多部は、しかし苦しそうな、寂しそうな、そんな表情を浮かべているのだ。
「ばかじゃないの」
その多部に声をかけられるのはやはり仁藤だった。さっきの仁藤らしからぬ表情もどこかへと行った。長く艶やかな髪をばさっとひるがえし、ふっと笑う仁藤はいつもの彼女だ。
「多部、あなたは確かに卒業するのよ」
さっき多部が言ったことだ。仁藤はそれを改めて突きつけ、さらに一言加えた。
「文芸部から、そして私たちから」
「だから、そう言ってるじゃないですか。仁藤先輩、何が言いたいんですか」
多部がかみつく。珍しく荒く怒っているような口調だ。さっきの怒り方とは違う。感情の乱れが見えることは多部にはほとんどない。
「違うわよばか。あんたはね、私たちから卒業して、一人でも楽しまなきゃならないわ」
仁藤の言葉に、今度は多部が固まる番だった。
「文芸部は楽しかったでしょ! それは当然だわ。私がいるんだもの! でも、いつまでも私たちがあなたと一緒にいることはできない。それは、きっとあなただってわかっていたでしょう? 私なんかよりずっと賢いんだから」
多部は呆然としたように、静かに聞いている。
「だからこそ、あなたは私たちから卒業しなきゃならないわ。私たちがいなくても楽しめる。その方法は私が教えたからね!」
黙ったままだった多部が口を開く。
「なにも、なにも教わってなんか。……仁藤先輩には敵いませんよ」
「ばかじゃない」
二度目の言葉が多部を殴った。
「あなたは私みたいに人望があついんだから、人を集めてばーんとでかいことやりなさい。突き進むための勢いは、私からあなたに卒業記念でプレゼントしておいたから」
仁藤のほうが馬鹿だ。馬鹿だが、馬鹿な言葉のほうが賢い奴には響く。
きゅっと口を結んだ多部の、その頬を涙が流れる。静かに、美しい一本の線となって、その線が雫になって落ちた。
多部は、多部らしかった。涙は拭かないまま、ニヒヒと笑う。
「ありがとうございます」
そう言って、深々と頭を下げた。
文芸部の卒業生が一人、増えた。多部未来はまたニヒヒと笑って、今度は晴れ晴れとした表情で卒業を宣言したのだった。
「あーあ。泣くつもりなんてなかったんですよ、本当は」
多部がふーっと息をつく。多部の卒業宣言から、しばらく部室では、仁藤と多部のじゃれあいが行われていた。本当に楽しそうにはしゃいで、一息ついたところで多部が言った。
「あー疲れました! ……ところで、先輩たち。小説書かなくていいんですか?」
多部の言葉に、時計を仰ぐ。壁に掛けられた時計は、午後十二時になったところだ。いつの間にこんな時間になったんだ。
「やばいじゃん! ちょっと部長! ちゃんと時間教えてよね!」
なぜか俺のせいにしてくる仁藤にひとつ溜息をついて、三度パソコンに向かう。仁藤も「うー」だか「ぐー」だかよくわからない唸り声を出しながら机についた。
「私はほとんど書き終わってますからねー!」
こうなってるのも多部のせいだと思うのだが、文句を言ってる暇もない。仁藤も「むう、多部め……」とかぼやきながらようやくキーボードを叩き始めている。
俺も集中しなきゃな。
テーマは『卒業』。自分で決めたからには、もちろん最初から話の内容は決めていた。
これは、俺にとっての卒業と感謝の小説になる。
ふっ、と短く息を吐いて、キーボードを打ち続けていく。心地よい疲労感と静寂の中で、自然と指は動いていった。
物語は終わりへと進みだす。
「じゃあ、多部から発表するか」
気づけば、日も傾きだしていた。時間は十四時。俺が書き終えた時には、制限時間を一時間こえていた。
一言謝って、さっそく公開の時間に移る。
「はーい。私はですね、この文芸部からの『卒業』をテーマに書きました。それで、ラストは仁藤先輩のせいで、予定とは大きく変わっちゃったんですけどね。ハッピーエンドです」
多部の説明を聞きながら、各々のパソコンにオンラインで送られてきたファイルを見る。
ファイル名に「Keep Hope Alive!」とタイトルがつけられた多部の卒業の物語。
「多部、このタイトルは」
「えへへ、タイトルもラスト変わっちゃったから急遽変えちゃいました! それは「希望を生かし続けなさい」っていう言葉です。さっき調べて、いいの見つけたのでそのまま使いましたー!」
なるほど。多部らしい表現だと思った。向かいでは、仁藤がいやらしい表情を浮かべながら「ふーん?」と意味ありげに呟いている。
「よし、じゃあじっくり読むのはあとにしよう。次は仁藤か」
「ん? 読むのは後回しなの?」
仁藤がおやっと顔をして聞いてくる。
「ああ、そのつもり」
各々の小説は、帰ってからしっかり読むことにするつもりだった。正直、俺がこの場で読まれるのがちょっと恥ずかしいからだ。
「ん。私のはこれね。中学の『卒業』を思い出して書いたのよ」
仁藤の中学校時代、それは俺も知らない。どんな環境にいればこんなわがままに学ぶのか知りたいかもしれない。なにか卒業に思い出でもあるんだろうか。
「えー、ずるいです仁藤先輩!」
突然、多部が叫んだ。ガタッと椅子が飛んで、多部もテーブルに身を乗り出す。今日一日で何回このポーズ見るんだ。
「な、なにがよ!」
珍しく狼狽える仁藤に、多部がさらに詰め寄る。
「私があんな告白したのに、仁藤先輩ははぐらかすんですかー! 絶対小説の中で書いてくれると思ったのにー!」
多部の勢いにさすがの仁藤もたじたじといったように見える。が、いったいなんの話をしているのか。どうもこの二人には俺は知らない秘密が多くありそうだなーなんて思う。
「うるさいわね。ちゃんと書いてるわよ。ばかね」
仁藤が、若干のけぞりながらもキッとにらみつけて答える。「ならいいんですよ」とにやにやしながら席に戻る多部を尻目に、「もう、そんなに言わなくても」とか仁藤にしては随分弱気な言葉がぼやかれる。こいつをここまで負かすことができる奴を、やはり俺は多部しか知らない。
「あーいいか? じゃあ最後は俺だな」
頃合を見計らって、俺が宣言する。多部と仁藤の視線が同時にこっちを向いた。この二人でも、俺はいまだに視線が向けられるとびくっとしてしまう。
「ん、と。俺は……『卒業』をテーマに書いた」
言うやいなや。
「当たり前じゃない」
「なんの卒業ですかー!」
前と隣から、同時にお叱りを受ける。気恥ずかしいから、声に出すのは避けたいなーと思っていたのだが仕方ない。この二人から責められては、逃げようもない。
「はあ……」
とわざとらしい溜息をついて、早口で一言。
「文芸部と、お前らからの卒業」
言った瞬間に、沈黙した。
「先輩」
多部の声が、数秒遅れて聞こえてきた。
「先輩、私とまるかぶりじゃないですかー!」
そう言われて、はじめて気づいた。最初から決めていたからそのまま書き上げてしまった。確かに多部の数時間前の告白とまったく一緒だ。
さきとは違う恥ずかしさに身を焼かれるような気分だ。居ても立っても居られなくなって、狭い部室と端っこまでダッシュして、後ろ向きに壁へと体当たりした。
「あー! 終わりだ終わり!」
勢いに任せて、叫ぶ。壁に当たった背中がじんじんと痛むが、不思議と心地よく感じた。
「仁藤! 多部! パーティーするぞ!」
そういうと、ぽかんとしていた仁藤はようやく普段の悪い笑みを浮かべて「おう! 待ってたよ!」と叫んだ。多部はいつも通り「いっちょ騒ぎますか先輩!」と仁藤の背中に飛びついた。
「文芸部! ここにみんなで卒業だ!」
結局パーティーは、下校のチャイムが鳴っても続き、見回りの先生に怒られるまで終わることはなかった。仁藤が暴れ、多部が笑い、俺も騒いだ。あんなに楽しい時間もあるのかと、俺は初めて知った。卒業なのに、なんだかこれから色々始まりそうな、希望に満ちた感覚だった。
惜しみながら、二人と別れて帰宅した俺は、いまだ興奮さめやらぬまま、部室から持ち帰ってきたばかりでまだ熱が抜け切れてないパソコンを起動した。中に入った、二人の小説のファイルを開く。
「お……? これ……」
仁藤のファイルだ。
開くと、中にはたった数行の文章が並んでいた。
居場所をつくることにいつしか必死になっていた。
あなたが良いと言ってくれたらそれでいいと思って、必死に頑張ってきたつもりで、終わってみればあなたの居場所は私の居場所にもなっていた。
あなたが私の居場所を作って、私があなたの居場所を作った。
その関係は、今日で卒業するわね。
今日まで、本当にありがとう。
仁藤の奴。小説を書けって言ったじゃないか。ばかだな。
「ばかだな……」
声に出た。言葉は、すっと出てきて、染み込むように自分の心に戻っていった。
仁藤のファイルをもう一度みる。そこにあるタイトル。
「太陽と月」
仁藤らしい。恥ずかしいタイトルをそのままつけやがって。しかも……。
自分のしたことに赤面しながらも、今頃あいつらも同じような顔しているんだろうと思って笑った。
俺はふと、自分のファイルを見る。そこにある文字、俺の小説のタイトル。
「彼らは、互いを照らしあう」
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