有栖川家には熊がいる

 ◇その朝、高校生の有栖川美空が目を覚まして真っ先に視界に入ってきたのは首にリボンを巻いたかわいらしい熊のぬいぐるみが椅子に座っている姿だった。

 その朝、会社員の有栖川愛海が目を覚まして真っ先に視界に入ってきたのは綺麗に整頓されたどこか違和感のある自室だった。

◇「美空、はやく朝ご飯食べちゃって。私、今日早いから」

 愛海の言葉に、八時になってようやく自室からでてきた娘は「へぇい」とけだるげな声で返す。

 椅子に座り無造作にトーストをかじる。パンがぼろぼろとこぼれてテーブルをまぶすのを、愛海はどこか違和感を覚えながら見ていた。

「はやく食べちゃってね」

 どうにも言葉にならなかった違和感を飲み込んで、それだけ言って愛海は会社へ行く支度を始めた。

 今日ははやいと母親が言うので、美空は急いで食事を済ませた。

 トーストをさくっと一枚食べて、牛乳で流し込む。皿とマグカップをシンクに置いて水で流すと、早々に自室へと引っ込んだ。

「美空、私もう行くよ」

 愛海の声に、わかったーと返事をする。美空も学校へ行く支度をして(前日に用意してあるので着替えるだけだが)鞄を持つ。美空も合い鍵をもっているので、母親に合わせて家を出る必要はないが、なんとなくいつもタイミングを合わせる。

「じゃあいってきます。いってらっしゃい」

 送りと出立の挨拶を同時に済ませ、美空は今日も学校へ向かった。

 ◇美空の学校はいつも通りだった。今日から冷房が解禁されたことと、視界の端にリボンのようなものがちらついて気になるということがあったが、その程度の平和な一日だった。

 愛海は職場でもどこか違和感を覚えていた。初夏の熱にじんわりかいた汗を拭いながら、何かが足りない感覚はどこに出かけても拭えない。そわそわと落ち着かない一日となった。

 ◇美空が帰宅すると、愛海はまだ帰っていなかった。夕方の六時を越えると日が落ち始めて少し暗い。一人で居るとこんなにも家が広く感じるものだろうか。落ち着かない気分で階段を登って自室に行くと、朝に見た熊のぬいぐるみがいなかった。片づけた覚えもないので不思議に思ったが特に探すでもなく、美空は部屋の照明をつけ宿題に取りかかった。

 愛海は自宅マンションに帰宅すると、リビングのソファに鞄を放り投げた。一日中もやもやしていた鬱憤が限界に達していた。ろくに洗わずに風呂を溜め、冷蔵庫からとっておきのシャンパンを出した。もっと記念の日に飲もうと思っていたがどうせ一人だ。いつ飲んだって大差ない。孤独な贅沢を準備するうちに愛海の気分は高揚していった。そして、ふと違和感の正体に気が付いた。

 そういえば鏡を一度も見なかった。珍しい日もあるなとだけ思って、愛海はすっきりした顔で服を脱ぎ、シャンパングラスを片手に風呂へと消えていった。愛海はすでに忘れていたが、もちろん風呂場にも鏡はなかった。

 美空は疑問に思っていた。家に誰も帰ってこない。時間は二十一時を越えていた。愛海はいつも二十時には帰ってくる。

 美空は疑問に思っていた。自分の母が、今朝はやけに左右を間違えていたことを。

 美空は疑問に思っていた。いつも西日がまぶしい帰り道が、晴天の朝のように歩きやすかったことを。

 美空は疑問に思っていた。自分が誰かと暮らしていた記憶がわずかにあった。でも、名前も顔も思い出せはしなかった。

 美空は疑問に思っていた。眠ろうと思ったのに、どうして椅子に座っているのか。

 美空は浮かぶばかりの疑問を考えることもできなくなった。狂気さえ起きない。静かな時間の中で、いつしか美空は椅子に座る熊のぬいぐるみになった。

 ◇その日、中学生の深谷梢が目を覚まして真っ先に視界に入ってきたのは首にリボンを巻いたかわいらしい熊のぬいぐるみが椅子に座っている姿だった。

 その日、その父である深谷良介が朝起きて真っ先に視界に入ってきたのは、西日が鋭く差し込む窓だった。

#小説 #ちょび #企画

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