七月の海はまだ冷たいけど
夏の海といっても、七月の入りではまだ冷たい。晴天の昼間だというのに砂浜にいるのは僕と彼女の二人しかいなかった。
僕は後ろから彼女の背中を見ていた。彼女は裸足で濡れた砂の上に立って、時折さらいにくる波の冷たさにきゃっとかひゃっとか声をあげていた。
「気持ちいいかい」
声をかけると彼女は首だけで振り返って、にひひと笑った。
「冷たくて笑っちゃう」
どういう感情なのかと、僕が考える間に彼女はパシャパシャと水が跳ねるように踊り出した。
「水が飛んでくるよ、冷たい」
抗議の声をあげる。
「あれ、笑っちゃわない? つめたすぎーって」
彼女はそう言ってけらけらと笑う。
「冷たいよ。びくってする。心臓とまったらどうするのさ」
「その時は、困っちゃうね」
君は助けてくれないの。と言いそうになってやめた。
「困っちゃうね」
それだけを返す。
「うん、困っちゃうよ」
今まさに困ったような顔をしているよ。と教えるべきだろうか。
「ごめんね。余計なことを言った」
僕が謝ると困った顔を深さを増して、耐えかねたようににへらっと笑った。
「謝らなくていいよ」
「そう。ならよかった」
安心したように言うと、彼女はふふっと笑う。
「本当にごめんって思ってるんだよね」
何を今更と思う。冗談で謝ったりしない。
「生真面目で優しい、そういうところが好きだったよ」
彼女が遠い目をして微笑む。僕の目をまっすぐ見つめる。
「今でもね」
はにかむように。恥ずかしそうに。イタズラっぽく。
「ありがとう」
僕は彼女の隣に並ぶ。足下に波がかかる。
「冷たくて、笑っちゃうね」
「でしょ」
しししっと笑う。僕も笑った。隣の彼女は表情が見えない。見えないほうがいいだろう。戻りたくなくなる。
気づくと日が暮れ始めていた。赤く染まって、空と混じり合う。
「視界がまっかー」
彼女がそう言って感動したけれど、僕はもう答える声がなかった。
「すごいよ、世界が広がったみたい」
「これ、現実なのかなー」
「夢みたいだなー」
「楽しかったよ」
僕は海の深いところまで歩きながら、彼女の声を聞いていた。
あなたが海に入っていくとき、全部わかってしまいました。それでも止める術が私にはありませんでした。
あの頃みたいに笑えていたでしょうか。あなたに会えた喜びは伝わったでしょうか。訊きたいことは山ほどあったけれど、あなたが躊躇うことなく海に入って行くものだから、尋ねなくても全てわかりました。
「日焼けしちゃったなー」
返ってくる懐かしい声はありません。
「水が冷たいなー」
「気持ちいいなー」
「帰りたくないなー」
そのまま日がとっぷり暮れてから、私はようやく波打ち際から離れました。
来年はちゃんとお盆にきてくださいね。美容室に行ったりお化粧したり、こっちにも準備があるんですから。……はやく来るのも二人っきりで会えるから嬉しいけど。
最後だけは声に出さずに思いました。聞こえちゃったら恥ずかしいから。
「えへへ」