綺麗な記憶は塗り替えて
「見て、もう黒くなってきた」
七分袖をまくりながら君が言うから、僕は笑った。
「まだ六月なのに、日焼けするの早いね」
太陽が手加減を忘れる夏には少し早い、六月の晴れた日。もう数年前のことなのに、俺は鮮明にあの日を思い出す。今年もその日が来た。
「先輩って、彼女つくらないんですかー?」
後輩が叫ぶように尋ねてきた。社用車はエアコンの調子が悪く、窓を全開にして走らせている。
「つくれたらつくってるよ」
「えー、またまたー」
風に紛れればいいと、あえていつも通りのトーンで返したのに、しっかり聞こえたらしい。それにしても、おじさんのようなリアクションが年も性別も相応ではない。二十歳そこそこの後輩は、そんなことは気にしていないようで、さらに質問を重ねてくる。
「過去の恋愛にトラウマがあるとか?」
「えらい踏み込んできたな」
牽制も込めてつっこむと、てへっと言いながら舌を出す。あざとい、と言うんだろう。
「トラウマなんかないよ。ただ、できないだけだ。出会いもないし」
半分は、本当のことを言う。後輩がえー、と叫ぶ。まっすぐこっちを見たかと思うとすーっと息を吸って
「ぜーったい嘘ですね!」
叫んだ。
「なんでだよ」
思わず反論する。少しだけ図星をつかれたことに動揺が隠せない。
「だって先輩、六月になるとダウナーじゃないですか。ぜーったいなんか思い出があるんだなって、ばればれです!」
擬音がそのまま聞こえてきそうなほどびしっとこちらを指さす。おそろしい観察眼というべきか。
「お前、俺のこと見すぎだろ。怖いぞ」
苦し紛れにつっこむと、間髪入れずに後輩が返す。
「好きですからね!」
車内が、風の音で満たされた。エアコンの調子が悪くてよかった。気まずい静寂に包まれずに済んだから。
「……なに言ってんだか」
「あれ? 先輩この期に及んで誤魔化すんですか」
手厳しい。
「そんなことだから、彼女ができないんですよ」
手厳しい。
「なにがトラウマですか。一生一人でいる気ですか」
手厳しい。
「ちょっと待て、心が持たない」
「そんな心は潰れればいいです」
軽い感じで逃げようとしたが、許してはもらえなかった。
「なにも知らないくせに人のトラウマに口を出すな」
「じゃあ教えてください、聞きますから」
怒って誤魔化すこともできない。
「なにが目的なんだ」
「私と付き合ってください」
わかってはいた。そういうことだと。
「なんでだ」
なんでだ。
「さっき言ったじゃないですか。好きだからですよ」
落ち着かない心とは対照に、車は快調に走り続ける。風がぬるい。太陽が強く、車内に差し込む。
太陽の下で笑った君を今でも思い出す。そんな俺でも、後輩はいいと言うんだろうか。
「いいのか、俺で」
大事なことを言う覚悟もないのに。
「先輩だから、ですよ」
後輩は笑う。
「俺は」
「先輩は」
また、半端なことを言い掛けた俺を後輩が遮る。
「先輩は、忘れられないトラウマがある。そんなことは問題ありません。六月になると意味もなく落ち込む。それを含めて先輩なんです」
もう、断る理由が見つからなかった。はあ、とため息をつく。うまく言いくるめられたような、そんな感覚だ。
「そうかよ。じゃあ、まあ、よろしくな」
締まらない言葉だが、後輩は嬉しそうに笑った。
「はい、よくできました」
「まったく、あそこまで言われたら受けるしかないだろ」
「そういう言い方しましたからね」
「打算的だな」
「告白ですからね」
恐ろしいやつだ。
「ところでお前、日焼けって気にするか?」
「付き合ったって言うのに、どうでもいいこと聞きますね」
自然を装って聞いたのにすげなく返された。
「冷たいな」
「当たり前じゃないですか。もう付き合えたんで、猫かぶらなくてもいいですし」
トラウマは払拭できそうかもしれないが、やっかいな恋人を手に入れてしまった。
「そういうところを含めて、私を愛してくださいね、先輩」
後輩の声が風にさわられていく。日焼けしそうな日差しが強く強く、俺を差す。今日も六月の晴れ空に、新しい記憶が増えていく。