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「あなたにとっての“キレイ”を、私に押し付けないで」
家事代行という仕事をしていると、どうも難しいなあと思うことがある。それは、家庭内で「キレイ」の個人差が衝突してしまう時だ。
たとえば、シンクに溜まった洗い物をきっかけに起こるこんな衝突。
A:なぜシンクに洗ってない食器が放置してあるのか。使ったらすぐ洗って戻してほしい。
B:洗い物は明日の朝起きたら自分で洗うから、そっとしておいて欲しい。
赤ちゃんがいるご家庭で実際にあったのがこんな衝突。
A:自分が潔癖気味だから、子どもがものを口に咥えて家中歩き回った後は掃除を手伝って欲しい。
B:赤ちゃんがいる家でよだれを拭き続けるなんて不可能に近い。もう少し寛容になって欲しい。
この他にも、お風呂の排水溝に絡まった髪の毛や、洗面所の鏡に付く白い点々、玄関の下駄箱からはみ出る靴たち、食後のおかずをいつ冷蔵庫へ戻すのか、等々…
これらはどちらが悪いでも正しいでもなく、ただ自分たちにとって心地よい「キレイの尺度」が異なるために、衝突しているだけなのだ。
家族のように、信頼関係があり距離も近い関係ほど。多少配慮に欠けても許しあえる関係ほど。双方が互いを受容し、歩み寄って互いの最適解を探し続けることが必要だと感じている。そのために必要なことが、家族間の対話である。
しかしながら、当事者の家族だけで対話をしていると、喧嘩や口論、意見のぶつかり合いになってしまうこともある。そこで我ながら、私たちのような「家事代行」という存在は、大変便利なのだと思う。議論の空間に「家族外の人間(平たく言ってしまえば他人)」がいるだけで、その討論を随分とマイルドにできるからだ。
両者にとっての「キレイ」の尺度に関する議論をしているとき、私は家事代行として両者の仲介に立つことを常々意識している。
「あなたの意見は間違っている」
「その考え方は常識外れだ」
そうした一種の拒絶的な意見は、言われる当人にとっては悲しくなったり、ムキになって必要以上に自分も相手の意見を拒絶する事態を招いたりもしてしまう。必要以上に誰かが傷つく状況を作ってしまう。
だが、必要なことは感情をむき出しにして言いたいことを言い合うよりも、互いにとっての最適解はどうやったら見つかるのか、一つひとつ確認する作業が必要なのではないだろうか。
そして、話し合って導き出したルールも、時間が経てば薄れてしまうこともあるだろうし、運用してみた後も「なんかしっくりこない」と、そんな気持ちになると思う。そんな時はまた家事代行にポロッとこぼしてもらっても良いし、直接相手に伝えるよりも、家事代行のような第三者を経由して伝えた方が、円滑に物事が伝わることがある。
そんな風に、あなたにとって都合のいいように家事代行を使ってもらえれば、それで良い。私たち家事代行の仕事とは、「家事」の「代行」ではあるけど、折角出会うことができたのだから、私はそこが無機質な関係で終えてしまっては少し寂しい。
どうか敵ではないから、
あなたたちと一緒にあなたの家族を考え、応援し、ちょっと困った時に駆けつけられるような、そんな身近なお隣さんとして、これからも家事代行の仕事を続けていけたらいいな。
「あなたにとっての“キレイ”を、私に押し付けないで。」
どうかそんな切ない言葉ではなく、これからの家族のカタチを一緒に模索していけるご家庭を増やすことができたなら。
そう考えながら、今日も私たちは誰かのお家へお邪魔しています。
おしまい。
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