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第18回 「妄想」という言葉に「きぼう」というルビを振るのはあなたの自由。

 洋介は、夜の七時近くにマリアが住んでいるアパートを訪れた。窓が暗くなっていた。五分ほど待っていると、見慣れた人影が杖をつきながら歩いてきた。白いブラウスを着て、膝小僧が隠れるくらいの長さの黒いタイトスカートを穿いていた。洋介が近づいていくと、マリアは立ち止まった。

「洋介くんね」
「よくわかったね」
「足音でわかるわ。あなたも、私が帰ってくるのがよくわかったね」
「なんとなく」

 外階段を上った。段差を踏むたびに、がん……と音が響いた。外廊下を歩いていくと、ふたつめの部屋の中で誰かが大きなくしゃみをした。マリアがふふ、と笑った。
 マリアの部屋についた。

「夜ご飯作るけど、食べていく?」
「手伝うよ」

 マリアは和室にバッグを置いてくると、食器棚代わりに使っている黒いスチールラックに置いてあったエプロンを身につけた。

「残り物で悪いんだけど」

 マリアは冷凍してあった米を電子レンジで解凍した。サラダオイルを染みこませてから、ニンジンと玉ねぎを混ぜて、チャーハンを作った。味噌汁とサラダも作った。手際がいい。手伝うと言っておきながら、洋介は台所の隅でぼんやりとしていただけだった。それでも、なにかしなくちゃいけないと思っているらしくて、料理を盛りつけた皿を運ぶくらいの仕事にはありついた。

「お魚も焼こうか」

 秋刀魚を焼いた。大根をおろすのは洋介がやった。ついでに調理器具も洗った。

「男手があると助かるわ」
「そんなに重労働じゃないけどね」

 洋介が言うとマリアは微笑んだ。
 小さな折りたたみ式のちゃぶ台はふたり分の夕食を並べるといっぱいになった。チャーハンは少しべとついていたけど、薄目の味付けは洋介の口に合った。

「今日はどうしたの?」

 マリアに聞かれて洋介は口ごもった。

「いや、元気かなって思って」
「この前会ったばかりじゃない」
「なんとなく、気になったから」

 マリアは秋刀魚をつつきながら首をかしげた。

「……武に頼まれたの?」
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく」

 そう言ってマリアは微笑んだ。

「あなたがはっきりと言わないなら、私もはっきりと答えない」
「意地が悪いね」
「あなたが、でしょ」

 洋介は小さく唸った。マリアはスプーンでチャーハンをすくって口に運んだ。

「あなたの話をしましょう」
「おれの話?」
「恋人のことを話して」

 容赦なく痛いところを突いてきた。洋介はもう自嘲するしかない。

「話せない」
「どうして?」
「昨日別れたから。もう過去のことになった」

 マリアは「ふーん」と言って、秋刀魚をつついた。

「ひとりは嫌い?」
「いや。ずっとひとりだった気がするし」
「仲がよかったかどうかはともかくとして、一緒に住んでいる人がいたのなら、それはひとりではないよ」
「他人の存在が近くにあるというだけで安心感があるってことか」
「安心感かどうかはともかく、少なくともひとりではないよ」
「お互いにプラスになる関係なら、一緒にいたいけどな」

 言ってしまってから、マリアの顔色を窺った。マリアは食事を続けながら言った。

「私はひとりでいいと思ってる」

 洋介は秋刀魚の骨を取り除いた。箸で身を摘もうとして何度もこぼした。マリアの顔をちらちらと盗み見ながら言った。

「真理子と暮らしはじめた頃は、この人が一緒にいてくれてよかったと思っていたよ」

 マリアはうなずいて、呟くように答えた。

「好きな人と暮らすってそういうことよね」

 洋介は頬を緩めた。

「お互いに疲れてしまったのかもしれない」

 マリアは相槌も打たずに、味噌汁を飲んでチャーハンを食べた。洋介は喋り続けた。

「無銭飲食と万引きの常習犯だったんだ。出会った頃からそうだったのかはわからないけど、おれが気づいた時はすでに何度もやっているようだった」
「それが原因で別れたの?」

 洋介はしばらく考えてから答えた。

「向こうが、出ていくって言ったんだ」
「引き止めた?」
「いや」
「どうでもよくなっていたのね」
「単にひとりになっただけ、って感じだった」
「あまりいいことではないわね」

 食事を終えると、流し台に食器を運んだ。洗い物は洋介がやった。マリアはちゃぶ台を台ふきんで拭いた。洋介は洗い物を終えてきてから、おそるおそる聞いた。

「マリアはどうだったの? 武と別れた時は……」

 マリアはちゃぶ台を拭く手を止めて、考えていた。洋介が謝ろうとした時に、顔を上げた。目を閉じているのに鋭い視線を感じて、洋介は目を逸らした。

「あの時は辛かったわね。嫌いで別れたわけではなかったから」

 洋介は台所と和室の境に立ったままうつむいた。

「ごめん、余計なことを聞いてしまった」

 マリアは立ち上がった。洋介の横を抜けて流し台にいき、台ふきんを洗った。パン、と音を立てて皺を伸ばしてから流し台の縁にかけた。

「昔のことはあまり考えないようにしているの」

 洋介はマリアの横顔を見つめた。

「おれは過去を生業にしているからか、過去のことを考える」
「過去のことばかり考えているわけではないでしょう」
「そりゃそうだよ。未来のことも考える」

 マリアは冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。洋介にも手渡して、和室に戻ると、窓辺に座布団を寄せて横座りをした。

「私は未来のことを考えると、いつも勝手な妄想ばかりしてしまう。だからあまり考えないようにしている」

 洋介はちゃぶ台の近くに座ってビールを飲んだ。

「妄想がゴールを設定して、自分の望んだ未来に導いてくれるんだよ」

 マリアは首を横に振った。

「本気で妄想を信じ続けられれば実現するかもしれない。でも私にとって妄想は妄想でしかないの」

 洋介はマリアを見つめた。マリアは言った。

「武に今日の話をするのなら、今の恋人を大切にするようにって伝えて」
「わかった。伝えるよ」

 ビールを飲み終えて洋介が立ち上がると、マリアは玄関まで一緒に出てきた。

「過去のことをあまり考えないと言ったけれど、あなたにもらったさいごの風景は時々観ているわ」
「おれが余計なことをしなければよかったんだ」

 マリアは首を横に振った。ビールで顔が少し赤くなっていた。

「武が私を喜ばせようとしているのもわかっていた。でも、そういうことは自分で決めなくてはいけない。私もきちんと断ればよかったんだけど、今ほど強くなかったのね」
「武は言い出したら聞かないから」
「その男性的なところが好きだったの」

 そう言って、微笑んだ。

「でもそれが原因で別れたのだから、恋愛って難しいわよね」

 洋介は「そうだね」と相づちを打った。洋介が外廊下に出るとマリアは洋介の腕に軽く触れた。

「また遊びにきて」
「近いうちに」

 がんがん音を立てて外階段を下りた。
 通りを歩きながら携帯電話を取り出した。アドレス帳から武の情報を選んだ。電話番号の上で人差し指が揺れた。しばらくためらったけど、結局携帯電話をポケットに突っ込んだ。

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