「デューン 砂の惑星 PART2」(2024年)
正直に言うと、この映画の素晴らしい要素(映像美、壮大な空間、ハンス・ジマーの音楽、重量感のある機械など)は、前作ですでに登場しており、2作目になると前回ほどの感動はなかった。同じ映画の続編だし、舞台も同じ惑星だからそれはいたしかたない。
映画の冒頭、「ワーナー」や「レジェンダリー」といったロゴが映し出される直前に1ショットが挟まれる。シンプルだがかっこよかった。もしかしたら今回一番センスを感じたショットかもしれない。
本編は、前作でも感じたがプロットを消化することに重点がおかれており、かなりの駆け足で物語が進む。原作には登場していた人物やストーリーも削除されていた。
原作では砂漠のシーンが多かったが、それでも登場人物の心理描写が丁寧に描かれていたために、読む価値があると感じた。
映画版でも当然砂漠のシーンが多いのだが、プロットを追うだけなので、人物描写は深くは描かれず、正直退屈した。
ただし、オースティン・バトラーが演じるフェイド=ラウサ・ハルコンネンが登場すると、突然面白くなり、そのまま最後まで突き進んでいく。
オースティン・バトラーの演技がよかったのはもちろんだが、彼が登場するあたりから起承転結の「転」の部分に入ったからだろう。
原作は1965年に発表されている。ほぼ60年前だ。
そういう作品を現在映画化する必要があるのだろうか、という疑問はあった。
60年前には世に向けてなにかしらを問う意義があったのかもしれないが、はるか過去の話だ。
原作を読み終えていないので、映画だけの解釈になるが、ヴィルヌーヴは今このタイミングで本作を作る必然性を提示している。
まずは現在よく耳にする独裁者というキーワードだ。
本作に登場するハルコンネン男爵は、「地獄の黙示録」のカーツ大佐がビジュアル的なモデルになっているのは明らかだ。カーツ大佐といえば、アマゾンの奥地に自分の国を作った独裁者だ。「デューン」では皇帝という人物が上にいるが、ハルコンネン男爵という人物は独裁者のメタファーであると言って差し支えないだろう。
次に宗教。本作では宗教を利用して人心を操ろうとする描写がある(描写があるというか、そういう要素ばかり)。そして、信仰心を武器に敵と戦うという、今まさにこの世界で起きていることが描かれる。
戦争のつながりでは核の話題も登場する。遠い未来の、しかも地球でもないのに核があるのか、という疑問はあるが、それでも今の世の中で核の話題は多い。「オッペンハイマー」「ゴジラ-1.0」も核の話であることを踏まえると、メディアの記事で読む以上に核の不安は強いのだろうか。
いくつか気づいたことを羅列したが、このように60年前の小説を現代社会の問題に紐づけて提示できている点は評価したい。
さらに、「デューン」といえばもちろんデヴィッド・リンチの名前が出てくる。本作ではリンチへのオマージュらしきショットもあった。リンチファンとしてはうれしい限りだ。リンチが喜ぶかどうかは疑問だが。
製作費は288億円。興行収入は公開約3週の現時点で768億円。
ちなみに前作は製作費が250億円で、興行収入は600億円。すでに前作を越えている。
第3作の可能性も見えてきたのではないか。
このおとな向けのSF映画の次回作があるならば、それはそれで楽しみだ。