「マッドマックス:フュリオサ」(2024年)
映画としてのインパクトは「怒りのデスロード」ほどではないが、作る価値はあった作品だと思う。
前作で登場したフュリオサがなぜイモータン・ジョーの「砦」で大隊長という地位にいながら脱走を試みたのか、という背景が描かれる。
本作でフュリオサを演じたアニャ・テイラー=ジョイは、作中はだいたい目の周りを黒くしたりしていて顔がよくわからないのだが、普通の顔のシーンもある。その時は非常に美しく撮れていた。ジョージ・ミラー監督のうまさだと思う。
ストーリーは、
「緑の土地」で暮らしていた幼いフュリオサは、ディメンタス将軍の率いるバイカー集団にさらわれる。彼女はなんとかして故郷へ戻ろうとするが、そのためには幾重もの困難を乗り越えなければならなかった。
といったもの。
冒頭、緑の土地でフュリオサはリンゴをもぎとる。そのあと、バイカーにさらわれていく。
この流れは聖書でアダムとイヴが知恵の実を食べたことで楽園を追われる姿になぞらえているのだろうか。
本作ではフュリオサがディメンタス将軍のもとから脱走しようとするのがメインストーリーになる。前作「怒りのデスロード」ではイモータン・ジョーのもとから脱走しようとする物語だった。緑の土地に戻るために戦いつづける、というプロットがループし続けるというのはおもしろい設定だ。
フュリオサの円環はいつ閉じるのだろう。
ディメンタスについて。
マッドマックスシリーズを振り返ると、第一作のトッカーター、第二作のヒューマンガス、第三作はアウンティ、第四作はイモータン・ジョー。個性的な悪役を生み出してきた。
ディメンタスは強面の凶悪犯的なビジュアルだが、クマのぬいぐるみを大切にしており、幼児性を感じさせる。彼はイモータン・ジョーの施設を奪うことで自ら豊かな土地を作り出そうとする。言動が読みにくくどこまでが本気なのかわからない、現代的なキャラクターになっている。
マッドマックスシリーズは「大きな戦争があって世界が崩壊しても、人類は戦うことをやめない」という人間の本質的な愚かさを描いている。それはいつの時代にも通用するテーマなので、逆に「なぜ今この作品が必要なのか」というメッセージが際立ちにくいという弱点にもなる。ただ、このシリーズはそのつど悪役のカラーを変えている。それゆえに「今伝えるべき映画」になっているのだと思う。
ディメンタスが言うように、いわゆる「約束の地」などというものは存在しないのだろう。あるとすれば、それは自ら作り出す必要がある。
それが本作が伝えたかったことだと思うし、世界はそういう風になっている。
定年退職まで会社に勤めればあとはのんびり余生を送れるという時代ではなくなった。真面目に働いていれば中流程度の幸せな暮らしが手に入る、ということもない。
人生は自ら切り開かねばどうにもならない、という時代になっているのだなと、あらためて思った。
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