スコープセレクター#NOKATA
両方にいい顔したい
歯ブラシを口にくわえたまま目の前の鏡を見て、片手で少し前髪を整える。少しずつ出勤前の時刻が進んでいく朝、気持ちは少し焦っている。
週に4日勤務しているアパレルショップへの出勤日。たかが4日とも言えるし、契約社員ではあるけれど今の私には大事なアイデンティティだ。
いつもは、早めに駅についてカフェでパンとカフェモカで朝食をとりながら、その日の予定を整理する。仕事にしっかり向き合えるテンションにあげて出勤し、たいていは一番最初にセキュリティを解除してショップ入りする。
大きい鏡を使ってゆっくりメイクを仕上げる時間もある。
が、今日は着ていくはずのブラウスによく見たらうっすら染みがあるのを見つけて、出勤着を交換した。新しい出勤着にアイロンをかけていたら、カフェに寄る時間がなくなってきたのだ。
口の中で歯磨き粉が泡立っている中、ダイニングテーブルの上に置いてあるスマホから「ピコン」と軽快な通知音が鳴り響く。反射的に歩いて行って、画面を覗き込むと、「スタイリスト依頼」の文字が目に飛び込んできた。
「あ」とつぶやいて、画面をタップする。メールにはこんな内容が書かれていた。
件名: スタイリスト依頼について
初めまして。佐伯と申します。
野片さんのホームページを拝見し、スタイリングをお願いしたくご連絡させて頂きました。
私はプロとして活動を始めたばかりのピアニストです。
約3か月後の12月の演奏会でのステージ衣装と、演奏会までに予定されている3つの撮影取材(日程はこの通りです)のスタイリングをお願いできればと考えております。
私は島根在住で東京に出る機会が限られておりますが、一回の打合せで衣装を4着選んで頂くことは可能でしょうか?
以下、私が東京に行く予定をお知らせしておきます。どの日も予定があり、時間が限定されますが、水曜なら比較的 昼間でも予定が空けられます。
HPで依頼可能曜日が月、火、日と拝見しましたが、もし可能であれば水曜日にご相談させていただけないでしょうか。調整が難しいかもしれませんが、ご検討いただければ幸いです。
難しければ、こちらで調整いたしますので遠慮なくおっしゃって下さい。
何卒よろしくお願い申し上げます。
「ぺっ」慌てて口をゆすぐ。
こめかみに力が入り、瞳孔が開いていくのが分かった。
週に4日の契約社員としての勤務日以外に、自称ファッションスタイリストを名乗り、HPを立ち上げ、ブログ発信している。
自称、というのは あまり依頼が来ないから。。。
この依頼はこれまでとはまるで違う。
今まではクライアントのライフスタイルに合わせて日常のワードローブを整え、個人の生活に馴染むようなスタイリングを提案してきた。
でも今回は、公の場で多くの目に触れる、特別なシーンのためのスタイリングだ。自分の提案が舞台上で、撮影の現場で、何かのメディアを通して誰かの視線の先に映る。規模は不明だが、少なくとも今まで私がやってきたスタイリングより露出度は高いだろう。
胸の奥にじわりとした感情が広がる。・・・できるかな?私みたいな中途半端なスタイリストでも役にたてるだろうか?
スタイリングだけでなく評価までしっかり記録されそう。失敗したら仕事を受けたこと自体がマイナスになるかもしれない。
そして、水曜は出勤曜日として契約している。しかも、クライアントがあげてきた最初の日程の日は、1年に一度の店舗全体会議の日。毎年の恒例行事で100名近くいるスタッフがスケジュールを開けておく日だ。
その日を逃すと、クライアントが次に東京にやってくるのは翌月になってしまう。
クライアントとの打合せはなるべく早くやって、ニーズを的確につかんでおきたい。サイズや体の特徴、パーソナルカラーなども早くから知っておいた方が服を選ぶ時間がとれるからだ。
スタイリストとして良い仕事をするには店舗全体会議を休みたいが、そんなこと可能なんだろうか?
なにかいい方法を見つけないと。。。
でも、まずは出勤だ!
全身が映る鏡で横も後ろも靴を履いた姿もチェックして部屋を飛び出した。駅まで10分ほど。残暑が厳しいながらも住宅地の庭先にコスモスの花が揺れるところもあり、ほんのり秋を感じさせる。
住宅地を抜けて大きな公園を横切って駅へ。公園に並ぶ木々の青々しさは、まだ夏らしい。
公園の中にあるカフェから珈琲の香り。ベンチに座って新聞を読む老人がいたり、犬の散歩をする主婦がいたり、朝の公園の様子をいつもはこの人はどういうライフスタイルだろう、どういうスタイリングが合うだろう、なんて観察しながら歩くが、今日はそんな余裕はない。
「スタイリング依頼を受けたい!」「でも決定したシフトを変更させて、年に一度の全体会議を欠席するなんて、勇気が出ない」
思考は改善策に向かわず、ひたすらその両方を行ったり来たりしていた。
私が働いている店は、外資系ブランドショップの都内路面店。
店の建物は有名建築家がデザインしたもので、建築物としてもメディアにとりあげられていた。
街の風景として、人々が名をあげるような華やかな店に立ち、こういうブランドを求めてくるような顧客と接する日々はそれなりに刺激的だ。
世界中の多くの人に知られている、このブランドに関わっていることは、私の生活を支える大事な収入源であるのと同時に、精神的安定の源にもなっている。
古くさいかもしれないが、身内だとか友人や初対面などの直接私に関わる人に対して、のいわゆる「世間体」として、ブランド名をあげて「そこで働いている」と一言言えばうさん臭くない、というのは とても便利なものだ。
その一方、別の夢を抱いている自分がいる。個人スタイリストとして独立することだ。
契約社員として週に4日。それ以外の日に依頼が入ったらいいな、という期待を込めて個人スタイリストとしてのHPを開設して1年がたつ。3か月に一度 依頼が入ったらまし、という状況、収入にしたら月に数千円という仕事とも呼べない状況ではあるが。
契約社員としてゆるく働いているだけで年月を重ねていくことに、漫然と不安がある。
この先ずっと同じところでは働けない可能性もある。もう少し頑張っておかないと、将来 今のゆるさのツケがまわってくるような感覚に襲われていた。
それでひとまず、今の契約社員の立場ですぐに始められる「何かできること」が個人スタイリストとしてのHP立ち上げだった。
独立できる、というのは、まったくもって夢のまた夢だが、個人スタイリストならば、販売員とは違って、自社の商品を提案するという制約を越えて、顧客に合わせて自分の持てる力を総動員できる感覚もある。
私はファッションが好きだから、ファッションを通して他人のお役に立ち、自分を認めて頂くことが、今の自分にできる生きていく方法かと思う。
もちろん、安定した収入を得ながら好きなことを続けられている現状に不満があるわけではない。その好きなことが「仕事」と呼べるレベルではないから恥ずかしい、とはちょっと思うけれど・・・
私は、なんとなく仕事をするのではなく、ある程度「有能」と認めてもらえるような働きがしたい。「ノカタさんに頼んで良かった」「ノカタさんがいてくれて心強い」と直接関わった方には思ってもらえるような仕事ぶり。
そうなろうと頑張れる分野がファッションだ。
そんな人がいたっけ、とか あの人でもまぁ大丈夫だよ みたいな評価をされる存在ではいたくない。それは子供の頃からそうだったな。
乗換駅からは始発が何本か出ている。うまくタイミングが合い、座ることができた。ほっとする。
目の前に立ったのは女子高生。制服という皆 同じ服装ながらも個性を出そうとシャツのボタンを外したり、暑いのに、わざと長袖を着たり、色々と工夫して「ゆるさ」を出そうとしている。
ゆるいのとだらしないのは違う。袖のまくり方とスカート丈の処理はもう少し工夫したら、センス良く見えるんだけどな。
他人の服装チェックしている状況じゃないか。苦笑する。
こういうアドバイスができるのはスタイリストだ。
販売員は単にお店に来てくれた人にその時あるモノ、これから入ってくるモノを買って頂けるように勧めるだけ。
ショーやデザイナーの情報が入ってきて最先端の様子が分かるけれど、自社にプラスになるように 情報を扱うし、最終的には自社製品を販売することで「能力」を示すことになる・・・時々 その枠が狭いと感じることもある。
もっと違うことで「能力」を示したい、「本質的な」ことで頑張りたい、と思うことが。
私の思う「本質的」というのはつまり・・・
いや、こんなことを考えている場合じゃない。スタイリストの依頼どうしよう。受けたい。でも、店での評価を下げるのは嫌だ。
店も私の大事な居場所だから、熱意を見せたい。決定したシフトを変更して、それは妥当だよ、と思ってもらうには、どうしたらいいんだ?当日 体調が悪くて欠勤するとか?
いや、当日うまく聞き入れてくれるか分からないし、上司に怒られた翌日にあたったらどんな理由でも休めば逃げたように思われる。当日が、どんな状況になるのか分からな過ぎて心臓に悪い。
こんな心境じゃスタイリストの仕事に集中しきれない。私は依頼主のプラスになるように「着ること」を通して全力で貢献したいのだから。
どうしたらいいんだろう。
通過音が車内に響いて、耳がもわん、とふさがれる感覚になった。電車は地下に入ったようだ。気が付いたら、自分の前には人の壁ができていた。都心に入ると車内も車外も人の河が出来ている。
あっと言う間に駅についた。人の流れに沿って、B12の出口へ。
シフト変更するなら1日でも早く対応しなければいけない。でも、変更する理由を上手く話せない。
迷う内容はどうやって休むか、という方向へ。スタイリストの仕事依頼は受ける方向でほぼ迷わなくなった。