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スコープセレクター#MIZUKI
ベランダからの花火鑑賞
10月に入ってから隣町で打ち上げる花火大会。毎年やっていて、子供の頃から親しんできた。
私は現在30歳。社会人7年目だ。
今日の花火大会は7年ぶりの鑑賞だ。今年の5月、人生初の一人暮らしを始めた。
最初は一人暮らしが寂しく、惨めな感じでコンプレックスがあり、周囲に内緒にしていた。なるべく充実していると思い込みたくて、頑張って自炊しておしゃれな食事をSNSにアップしたり、やたらにインテリア小物を買ってみたり。
でも、そのうち周囲への気兼ねをしなくて良い快適さに気が付いて、とても充実した時間を過ごしている。
そして、花火大会をベランダから見る、というたった一人の「イベント」をすることにしたのだ。
子供の頃、花火大会は毎年楽しみにしていた夏の大イベントだった。家族みんなで、河原まで敷物を持って行き、打ち上げ場所の近くで花火を見上げるのが恒例だった。父が早めに場所を取ってくれて、母と私、弟で夕方から場所をキープしていた。河原には、同じように家族で来ている人たちがたくさんいて、みんながベストポジションを狙って場所取り合戦を繰り広げていた。
花火が始まるまでの間、私は同じ年頃の子どもたちと一緒に遊んでいた。でも、ある年のことが強く記憶に残っている。友達の中で、ある女の子が他の子どもたちにお菓子を配り始めた。私も「何かあげなきゃ」と焦った。私の中で「周りに良い印象を与えなくちゃ」という気持ちが強く働いていた。
その年の花火も、夜空に大きな音とともに美しく打ち上がった。みんなが「わぁー!」と歓声を上げる中、私も楽しんでいるように見せていたけれど、実際にはその前のお菓子配りのことが頭から離れなかった。「私の配ったお菓子どうだったかな?」という不安が、花火の輝き以上に私の心に影を落としていたのだ。あの夜、ただ純粋に花火を楽しむことができたかどうかは、今となっては曖昧だ。でも、その一連の出来事が、家族や周囲の人たちの目を意識して生きている自分を強く実感する出来事だったことは間違いない。
学生時代になると、花火大会の楽しみ方は一変した。家族と一緒に見に行くことはなくなり、毎年友達や恋人と一緒に楽しむのが当たり前になった。有料席を取って、打ち上げ場所に近い河川敷で夜空を彩る花火を見上げる。それは、私にとって一種の「ステータス」だった。
特に大学時代は、華やかな学生生活を送っている自分を実感したかった。友達と一緒に露店で食べ物や飲み物を買い、雑踏の中を歩き回るその雰囲気が、私にとって特別だった。皆と一緒にいることで、自分も同じように楽しんでいると思い込み、花火が打ち上がるたびに心の中で「これが幸せだ」と実感していた。
その頃付き合っていた恋人と一緒に見る花火も、特別な意味を持っていた。手をつなぎながら、目の前で咲き誇る大輪の花火を見上げる瞬間、自分の人生が「うまくいっている」と信じられる気がした。周りには同じように恋人や友達と楽しんでいる人たちが溢れていて、その光景が私に「これが理想の学生生活だ」と思わせていた。
でも、実際にはそんな感情がどこか作られたものであることに気づいていた。たくさんの人で賑わう会場、夜空を彩る花火の美しさ、そのすべてが私の心に充実感をもたらしているように見えたけれど、本当の意味での満足感は得られていなかった。それでも、その当時はそれを自覚していたか曖昧で、ただその瞬間の輝きを追いかけ続けていた。
あの頃の私は、周囲の人たちと仲良く、楽しく過ごすことが自分の幸せであり、みんなの幸せだと信じていた。友達と笑い合い、恋人と手をつなぎ、夏のイベントや花火大会を共有することが、私にとって「良い人生」を送っている証だった。
でも、実際には常に「他人の目」を気にしていた。私の行動で周囲が喜ぶ、私が行動すると、周囲が幸せになるからだと思っていた。自分の存在意義を確認していたのだろう。皆と同じことをしていることも心地よかった。
しかし、今思えば、その幸せはどこか表面的で、一瞬のものだった。花火が打ち上がって夜空に消えていく瞬間のように、私の心の中にもぽっかりと空白があった。それに気づくのはもっと後のことだったが、その当時の私は、ただ流されるままに生きて、周囲の幸せに同調していた。そして、その一瞬一瞬が過ぎ去った後に、何か大切なものを見落としているような気持ちを抱えていたのかもしれない。
花火大会を一人で鑑賞する。今までの私だったら嫌でたまらないものだった。花火大会は私が充実した生活をしていると示してくれる、実感させてくれる、それが定説だった。
だから、心中はさておき家族と一緒に、周囲の家族と仲良く、学生時代ならゼミ仲間や同期のなるべく友人が多い明るいグループと楽しそうに、または恋人と手作りのご飯をしっとりと食べながら、など毎回 どういう見方をするかは自分の人生の充実度を実感するバロメーターだった。
一人で寂しく見るなら花火大会のことなんて忘れていたい。だから社会人になってからは一度も花火大会のことを気にかけないようにしてきた。
「忙しいからね」
と言い聞かせて。
友達とスケジュール調整をする、飲食物を用意する、場所や交通手段などを事前打ち合わせする、楽しくスムーズに華やかに、とついつい欲張る自分にうんざりだ。
一人暮らしを始めて、割とすぐに花火大会の日が休日だと知って最初は、葛藤した。頑張って準備して皆と段取りをつけて、久しぶりに打ち上げ会場まで行こうかな。。でもかなり大変。。などなど。
でも、結局 遠く離れた丘陵地に立つ団地のこの部屋から一人で見ることにした。
それもいいじゃない、と思える境地に変化したのだった。
何故そんな風に変化したかは、まだ今は、うまく言語化できない。
そのうち気持ちと思考を整理して文章にしたいと思う。
夜の風が頬をかすめる。丘陵地に広がる団地から、遠くの河川敷で打ち上げられる花火を眺める。高く上がった花火は一瞬、夜空に鮮やかな花を咲かせ、次の瞬間には消えていく。その刹那の輝きが、私の胸に小さな喜びの灯をもたらす。
「これが私の場所だ」。初めての一人暮らし。ここに住んでからまだ数か月しか経っていないが、心の底から自由を感じている。他人の目を気にせず、自分の好きなタイミングで好きなことをする。今日も、特に誰に報告するわけでもなく、この夜景と花火を一人で楽しむことができる。
ふと眼下を見ると、丘陵地から河川敷までの道には車の列が長く続いている。赤いテールランプが連なり、まるで赤い光の川のようだ。「あの渋滞の中にいなくてよかった」と、思わず微笑んだ。家の中の静かな空間と、この高台からの見晴らしに、少しばかりの優越感すら感じる。これが自分の選んだ場所、そしてこれが自分の選んだ時間の使い方だ。
他人と比べて華やかかどうかは関係ない。
住んでいる団地の前を、バスが通り過ぎる。中には仕事帰りの人々が乗っているようだった。薄暗い車内が時折、街灯の光でぼんやりと見え隠れする。「みんな、長い一日だったんだろうな」それと対比して自分はとても恵まれている。今日は休日で、すっかりリラックスしている。そして、この美しい景色を独り占めしているのだ。
眼下には、平野部に広がる低層のマンションや戸建て住宅が点々と灯りを灯している。その小さな灯りのひとつひとつが、そこに住む人々の生活を映し出している。「みんな、それぞれの場所で、好きなように過ごしているんだな」と思うと、不思議な安心感が胸に広がった。誰かとつながるわけではないが、同じ夜を共有しているというささやかなつながりを感じる。
手元にあるお気に入りのグラスを持ち上げ、クラフトビールを一口含んだ。冷たい液体が喉を滑り落ち、体の中に染み込んでいく。質素な暮らしではあるが、今の私にはこれで十分。この瞬間、ただ一人で自由であることが、何よりの贅沢に感じられた。
遠くで再び花火が上がる。静かにそれを見つめながら、目の前に広がる景色と共に、この新しい生活を心から楽しんでいた。