ネグレクトされて育ちました-中学時代②-

前回でざっくり中学生時代の心情をお話しました。

今回はもう少し細かくお伝えしていきたいと思います。


まず、母親の離婚騒動によるJWからの脱会。
幼稚園や保育園という世界を知らずに育った私には、小学校という集団への適応能力は低かったと思います。
ゲームや漫画、アニメ、テレビも禁止されていて
何一つとして共通の話題がないので
当たり前といえば当たり前ですよね。
ただ、私は特異な存在がそんなにも爪弾き者に
されるとは知らなかったので、
小学生時代は親が信仰している宗教によって
できない事が多い、とは周りに伝えていました。

中学1年生の時に、関西地方へ引っ越してきたため
標準語を喋ることを揶揄われていました。
中学2年生の頃には、いきなり暴言を吐かれたりするように。周りは見て見ぬふりでした。
また、太っていたのでその容姿弄りもされました。

ただ方言が喋れず標準語というだけで、バカらしいなーと思いつつ、1人の親友とずっと一緒に居ました。

そこから学校はサボって街をブラブラしたり
私服警官に目をつけられるのを避けるために
カラオケ屋で日中過ごして
下らない話をして過ごしていました。

そして出会い系にハマり見知らぬ男と遊ぶ日々。
薬をやってるだとか援助交際してるだとか
パパが居るだとか、煙すらない所から火が出てました。

中学2年の時に親権は父親へ。
その時期に父親は叔母に連れられて
別の宗教団体の合同宿舎へ連れていかれました。

母親が盲信していた神の教えにより
理不尽に叩かれ、存在否定され続け、
人生全てにおいてレールを敷かれていた。
親からの愛情を疑うことしか知らずに、
学校で馴染めないのも、家族関係がおかしいのも
全て教理の為だと信じてたのに、
両親ともにあっさりと教理を手放した。
エホバの証人2世として作り上げられ
全ての葛藤は悪だと信じ込まされて
13年間縛られ作り上げられてきたものは、
全て嘘だったと言われたら、もう何も信じれませんでした。

父親が合同宿舎に行っている間は
母親が帰ってきていました。

多分、あれは春休みか夏休みだったと思います。
夜中にトイレへ行った私は、
シャワーの音を聞いて姉が浴びていると思いました。
その時はシャワーを浴びている音ではなく
ただ床に叩きつけられる水滴の音だけで
少し違和感を感じました。

でも、姉と仲良くなかった私は
扉を開けようとしても施錠されており
「湯冷めするから早く出ておいでよ?」
と軽く声を掛けただけで、
違和感を飲み込んでしましました。

朝方に母親が慌てふためいて
「お姉ちゃんがリストカットして
浴槽で倒れている」と言われました。
頭が真っ白になって固まっていると、
母は姉に付き添って救急車へ。
後で警察が来るから対応するように言われました。
警察官が来て家の中を見て、
事件性は無いと判断して戻っていきました。

その後は、ただひたすらに
何ヶ月ぶりかに足を踏み入れた
姉の部屋で血痕が付いていた制服を見つけ
不安で不安でそれを握りしめながら
泣き続ける事しか出来ませんでした。

あの時の違和感を信じて扉を開ければ良かった
たった2人の姉妹だからこそ大事にすれば良かった

初めて姉を失う事が怖いと思いました。

その後、無事に縫合もおわり帰宅した姉に
どのように接したらいいかも分からずに
腫れ物を触るかのような態度しか取れない私と
いつも通り、私に無関心で素っ気ない姉。

合同宿舎から帰ってきた父親は
もう既に私の知っている優しい父では
無くなっていました。
些細な事で激昂しては、
母親と見た目がそっくりな私を見て

「お前はあのクソ女にそっくりだ」

「だから、お前も結婚出来ない。してもダメになる。」

「お前らは捨てられた。」

「お前は元々生まれてくる予定じゃなかった。
聖書の教えで堕胎出来なかったから産まれてきたんだ。」

「俺だって今すぐここから飛び降りて死にたい!でも、お前らが居るから死ねない。」

沢山の暴言を吐いてきました。
その時に、父親には愛されていると
思っていた自分は愚かだったんだ、

と気づきました。

生まれてくる予定じゃなかった、お前らが居るから死ねない。
そんな事を14歳で父親に言われても
私の心は何一つ動揺しませんでした。

むしろ、気にせず飛び降りるなりなんなりすればいいのに、と。
人としての感情が欠落していました。

もう、大切なモノなんて何も無い、と思って。


父親は虐待していたのは母親だ、
その事実は知らなかった、
そう今でもいいます。

だけどお父さん、貴方も確実に私の心を壊したよ。

親に対して吐露することが出来ない
憎しみなのか悲しみなのか失望なのか
分からない気持ちを抱えて生きています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?