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【写真】あなたへ祈りを、無条件の祝福を







細い雨に服は湿り、眼鏡は濡れる。「個」が「無」に塗り変えられていくような感覚を、ほんのり冷たい風がそっとなでては去っていく。

私は秋の冒頭で、雑踏の中に立ち尽くし、とあるイベント会場への案内看板を持ちつづける労働をしていた。

黙して定点に立っているだけなんて楽な仕事だと思うだろうか。十月、さまざまな場所でさまざまな労働をしてきたが、身体的にも精神的にも一番きつかったのはこの看板持ちだ。もうやりたくない。気が狂うかと思った。危うく大声で叫びながら全速力で走り出したい衝動に身を焼かれるところだった。

だから、視界に入った犬の数を数えつつ、通り過ぎていく幾多の人生の一片たちを見ていた。



「滑らないように気をつけてね」と家族に声をかけられた女性が「ありがとう」と返す。とっても大きな犬が、小学生ぐらいの女の子にリードを握らせ、おとなしく散歩をしている。転んでしまった男の子が着ていた白いオーバーオールは派手に汚れている。三人組の女性が一人一匹ずつマルチーズを散歩させている。二匹は軽快に階段を駆けあがるが、残る一匹は階段の前で立ち往生し、結局飼い主に抱きかかえられる。ふいにいくつものしゃぼん玉が飛んできて、その発生点を探すと小さな兄妹だった。

「そのイベント、このエスカレーターを上がったところでやっているの?」突然声をかけられる。その瞬間、無に塗りつぶされていた個を取り戻す。「そうです、上がってまっすぐお進みください」と答えたら、立っているだけのことにもほんの少し意味が付される。

思い出したのは、コロナ禍でステイホームが強く推奨されていた頃、動物園や水族館に住む生き物たちに起きた異変の話だ。休園・休館によって飼育員以外の人間が姿を消すと、動かなくなったりごはんを食べなくなったり、退屈やうつ症状を示すような行動が増えた、と。(もちろん数多の人間との接触がなくなったことで元気になった生き物も多いらしい。そりゃそうか。)

いくつかの生き物たちは自らを観察する人間を観察する。それは刺激となり、ストレスを減らす。

たしかに、自ら食料を確保する必要もなく命を脅かす天敵もいない空間にずっと居つづけるのは、雑踏の中で看板を持ちつづける労働に通ずるものがあるかもしれない。刺激がありすぎても疲れるが、暇も心を食い潰すものだ。いくらインドア派でも独りが好きでも、ある程度外側との接触がないと人は狂ってしまう。



人によって程度の差はあれ感覚は常に働き、命は無意識のうちに世界から刺激を受けている。内向的だ外向的だとか、感情的だ理性的だとか、個を規定するあらゆる尺度は他者との比較を前提に成り立っている。孤独すら、群衆の中にしかない相対的なものだ。絶対的な自分などなく、自分の外側と内側の境界線に個はある。むしろ外側があるからこそ個が定義される。自分の外側からの影響をまったく受けずに生きることは不可能だろう。

同時に、自分が誰かにまったく影響を与えずに生きていくこともまた不可能なのだと思う。たとえば、私が持っていた看板を見て予定を変更した人がいたとしよう。もしその人が予定を変更せずにいたら、その先で電車の遅延に巻きこまれたり事故に遭ったり、実はそういう運命にあった可能性だって考えられないわけじゃない。

もっと極端な話をしよう。駅の人混みの中、すれ違いざまに肩がぶつかって思わず舌打ちをしてしまったとする。舌打ちされた相手は実は綱渡りをするかのごとくギリギリの精神状態を生きていて、その舌打ちひとつをきっかけにあらゆる悲観が溢れかえり、その道の先で走る電車の前に飛びこんでしまうかもしれない。

前を歩いている人がハンカチか何かを落とし、それを拾って声をかけたとする。声をかけられた人が実はもう死んでもいいやと考えるほどの出来事に見舞われたばかりで、でも「自分が落としたものを拾ってくれた優しい人がいた」という出来事がまばゆい希望となり、生きる気力を取り戻すかもしれない。たとえ拾った人にとってはすぐ忘れてしまうほどの些細な行動だったとしても。



ある一点で蝶が小さく羽ばたき、水が揺れ、その波紋は大きく広がっていく。私たちは皆、波紋の発生点だ。ただ存在しているだけであったとしても。存在している限り、ずっと。もしかしたら存在を失っても、なお。

だから親切でいようという単純な話でもない。親切心すら他者を傷つける可能性を持っているのが、この社会の難しいところだ。自分が発生させた波紋がどう広がりどう形を変えるのか、その答えは実際に発生させてみるまでわからない。答えが不明のままで波紋が消えることも多い。

だが、想像することはできる。たとえば、あなたが今打ちこんだそのリプライが、送った相手の命を奪う可能性を。なんの気なしにタップしたハートマークが、創作に生きる者の創作人生を延命させる可能性を。

私自身どちらかといえば死にたがりなほうだ。だとしてもこの命が波紋の発生点であるならば、表現活動だけでもできるだけ希望的なものにしたいと最近よく思う。この波紋は祈りに近いものかもしれない。



父親に抱きかかえられた少女が、看板を持って立っている私を物珍しげに見つめながら遠ざかっていく。この私が彼女に大きな波紋を残す可能性はどうにも思い描けないけれど、せめて彼女の未来が良きものでありますように、と祈っておこう。

たくさんの人生が交錯する場所に、金木犀の香りが舞う。世界は長く凍てついた眠りにつく前に、溢れんばかりの色彩を輝かせる。私たちにはそこにただある景色すらも光として受け取る力があると、そう信じている。


ここにある写真たちは、あなたへ贈る無条件の祝福です。

















※本文一枚目(マリーゴールド畑)の写真は、制作にあたり編集ソフトを使用して電柱などの人工物を意図的に削除しています。


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月報

ビルの一室で時間に追われながら黙々と作業したり、雑踏の中で看板を持って立ちつづけたり、いろいろな労働をした一ヶ月だった。いろいろな人と会ってはしゃべり、またはいろいろな人生の一片を眺めて、そのたびに自分が今いる場所を考えた。

自分がこの世界に生まれてもう三十年になろうとしている人間だとは、我ながらとても思えない。それでも生きていくしかない。


今月のプレイリスト

銀の龍の背に乗って / 中島みゆき

晴々! / いきものがかり

ズッコケ男道〜友よ / SUPER EIGHT


  

 

  

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