黄色い花の復讐 (#同じテーマで小説を書こう 参加作品)
紫苑が突然彼氏にフラれ、緑の住むマンションに転がりこんだのはちょうど23時だった。
深夜、しかもアポなしの来訪に対する詫びもなく、紫苑は緑が玄関ドアを開けるなりズカズカとあがりこんだ。紫色のトレンチコートを脱ぎ捨て、見知ったクリーム色のソファにどかりと座る。勢い余って、細い体が少しだけ跳ねた。
「お酒あるよね?ちょうだい」
「あいにく、今日はないわ」
「は?ないの?あたしはね、彼氏に突然フラれてイライラしてんの。ほかに好きな女ができたらしい。あいつはあたしが働いてる出版社の御曹司なのよ。玉の輿の大チャンスだったってのに」
言葉もなく、緑はソファの背後、キッチンカウンターに並んだ木製のチェアに腰を下ろす。この日が来ることはわかっていたから、カウンターの端にはガラス製の花瓶を置いて、小さな黄色い花束を生けてある。彼女は左手でその花を優しくなでた――決意の証として。
「あーイライラする。お酒飲みたい。ホント最悪」
「そんなにお酒が必要なら、すぐそばのコンビニで買ってくればいいじゃない」
「めんどくさー、緑が買ってきてよ。どうせ毎日家にこもって、エッセイだか何だか知らないけど書いて、パソコンとにらめっこしてるんでしょ。運動したほうがいいよ」
あたしは一日中営業で外回りしてるから足パンパンなの、あたしのほうが稼いでるからお金は出すし。紫苑はごねつづける。鼠色の退屈が肺を圧迫してきて、緑はそれを一気に吐き出した。
「何よそのため息」
「私はね、ささいで日常的な、それでいてかけがえのないものこそが“幸せ”だと思ってる」
立ち上がった緑はソファの横を通り過ぎ、広いベランダへつづく窓を開け放った。涼しい夜風が白いレースカーテンを押しのけて、淀んだ部屋を駆け回る。それは退屈を吐き出した肺に、新鮮な勇気を送りこんでいく。
「ただ日常がつづいていくこと、それこそが本当の幸せよ。お金を稼ぐとかお金持ちと付き合うとか、そういうことだけが幸せじゃない」
「…何?あたしは不幸な人間だとでも言いたいわけ?」
「ちがうわ。幸せの定義は人によって異なるから、単純に比べられるものじゃないって言ってるのよ」
「ってかその話、あたしがフラれたことと関係ある?」
ほらそうやって。あなたは自分に都合が悪くなると、必ず論点をずらす――緑はベランダに出た。
水菜と小松菜はそろそろ収穫しないと。イチゴはもう少しかな。明日はミニトマトの植えつけをしようかしら。緑にとってこの場所は、激昂も嫉妬も赦してくれる聖域だ。
「まだ家庭菜園なんてやってるんだ?よく飽きないね」
「こういうのが幸せなのよ。ちゃんと相手をみて、世話をして、関係をあたためて。時が来れば、それは返ってくる」
「幸せの話はもういいって」
顔をしかめて、紫苑は無遠慮にソファに寝転がった。緑はキッチンへ、そしてキッチンバサミを片手に再びベランダへ。そしてあるプランターの前にしゃがみこむ。
ちょきん、ちょきん。金属音は鬱屈も切り離してくれるのだ。
✽
しばらくしてリビングに戻った緑は、その手にもこもことふくらむ緑色の小さな傘をいくつも乗せていた。
「それ、ブロッコリー?」
「最後に何か作ってあげるわ」
「…最後?」
緑の口角は左右対称に釣り上がり、しかしその目は冷えている。
――今日の緑は変だ。
いつもは、あたしが愚痴を言い出せば、どんな内容でもあたしの味方として相槌を打ってくれるのに。あたしがいつ家に押しかけてもいいように、自分は一口も飲まない缶ビールを常備しておいてくれるのに。
ザクザク、ザクザク、トントン。
「最後ってどういうこと?あたしたち、これからも“友だち”でしょ?」
カチッ、チッチッチッチッ、ボウッ。
「ねぇ、緑?」
ジュウウウウ。
「私が“友だち”なのは、今日の23時59分まで。明日になった瞬間、私はあなたの“友だち”をやめるわ」
✽
23時30分。白い湯気が立ちのぼる。何も描かれていない真っ白な丸皿に、オリーブオイルで炒められたブロッコリーの鮮やかな緑と、厚切りベーコンの光るような赤が踊っている。
「実は私、一年前に本を出したのよ」
ブロッコリー、別にそんな好きじゃないんだけど――促されて、紫苑はキッチンカウンターの木製チェアに座る。“最後の料理”を紫苑の目の前に置くと、緑は立ったまま、意気揚々と話し始めた。
「幸せについて書きつづけていたわ。紫苑が言う通り、家にこもって毎日パソコンとにらめっこ。で、二年前かしら、出版社の方が声をかけてくださって。その流れで、エッセイ集を出版させてもらったの」
「そんな話、聞いてないんだけど」
熱々のベーコンはフォークを突き立てられ、紫苑の口の中へ消えていく。二人の背中を夜風が泳いだ。ベランダへつづく窓は開け放されたままだ。
「あなたに話したところで、何になるの?あなたはいつだって自分が一番じゃなきゃ嫌な人間でしょう。誰かを素直に褒めたり祝ったり応援したり、そういうのがたったの一度でもあったかしら」
――大学時代に出会ってから、ずっとそう。飲み会で会話の輪の中心にいられないと、不機嫌になる。友人の結婚報告の影で、絶対離婚するよと口走る。私が作家になりたいと言えば、緑が売れっ子になれるわけないじゃんと言ってのける。
緑は長年育ててきた怒りの花を一つも残さぬよう刈り取って、手早くカウンターに並べてみせた。紫苑に立ち上がる隙すら与えぬように。
「出会った頃の私は、あなたより経済的に苦しかったし、モテなかったし。それに自分の主張を口に出すのが苦手だったわ。あなたはそこに目をつけたんでしょうね。“親友”なんて素敵な言葉でごまかさないで。あなたが欲しかったのは、“いつでも自分の優位性を確認できる手下”でしょう」
フォークの動きが止まる。紫苑の大げさなつけまつげが、バサバサと上下に動いた。
図星だった。
キャリアウーマンでいようとするのも、玉の輿を狙うのも、わかりやすい幸せが欲しいから。わかりやすい幸せは、そのままわかりやすいステータスになってくれるから。そんなハリボテのような武装を重ねなければ、あたしはあたしが生きている価値がわからない。
自分より幸せそうな人間をみると、そのハリボテを引き剥がされて、あまりに痛い。だからわざと攻撃して憂さ晴らししたり、自分より不幸そうな人間をそばに置いて安心しようとしたりした。そうでもしないと、あたしは「生きていていい」と思えない。
「ねぇ、みて。私が初めて書いた本、これよ」
丸皿の横に置かれた文庫本を、紫苑はおそるおそる覗きこんだ。タイトルは『ブロッコリーを傘にする女』、著者名は「翠」とある。
知らないはずなどなかった。だってこの本は、紫苑が働く出版社が版元で、自身がこの足で営業して、そして朝の情報番組で取り上げられるようなベストセラーになったのだ。
「紫苑は営業部よね?もしかして、この本にも関わってくれたのかしら?だとしたらお礼を言うわ。私、あなたのおかげでとっても幸せよ」
緑は左手を口元にやり、ふふふと笑う。同時に、紫苑の目に飛び込むきらめき。薬指に輝くそれに殴られ、紫苑は思い出す。
そういえば、あいつが「すごい才能と出逢ってしまった!」と興奮ぎみに話していた夜があった。しかもあのときの目には、付き合い始めたばかりの頃あたしに向けてくれた赤があったような。それは二年前ぐらいだったような――。
ぶわぁっ。突然、ひときわ強い夜風があがりこんでくる。それはまるでブランコのようにカーテンをまきあげ、そして容赦なく文庫本をめくり、めくり、めくっていく。
「ブロッコリーの、私たちが普段食べている部分は花の蕾なのよ。本に私が咲かせた花の写真を載せたわ。みてくれた?」
紫苑は我慢ならず、目を閉じた――この本の営業をしていた一年前は、その小さな黄色い花の写真も、その横に書かれたエピローグも、心のなかで馬鹿にしていたのに。
暴力的な風が去っていく。紫苑はゆっくりと目を開ける。ベーコンはすっかり冷え切った。カウンターの隅に生けられた花だけが、真っ当な命を灯している。
そして、時計の針は重なった。
ブロッコリーを傘にする女は、いずれその手に大きな太陽を掴む。ブロッコリーを蹴り飛ばす女は、ほんの一瞬の通り雨すら、自力でやり過ごせはしない。
ブロッコリーの花言葉、それは「小さな幸せ」。
――『ブロッコリーを傘にする女』(著・翠)より
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トップに使った「浜辺に落ちているブロッコリーの写真」を使いたいがために、初めて小説を書いた。長くね?私は書けているのか?