【写真】重力から解き放たれるまでの散歩道
「まだ暑いまだ暑い」と喚いていた日々、秋は突如として眠る私たちの前に姿を現す。そうしたら、その肌寒さに目覚めた私たちは「急すぎるだろう、風邪をひくじゃないか」と文句を言った。
だから秋は怒って背を向けてしまった。自分を求めたのはあんたたちじゃないかと眉間にしわを寄せる秋を、帰り際の夏がまぁまぁと必死になだめる。ほんのりと涼やかな雨は秋の歌ではなく、そんな夏の冷や汗かもしれない。
世界の隅っこでうずくまる秋に、夏がキンキンに冷えたサイダーを手渡す。秋はむくれたまま、黙ってそれを飲み干す。
柔らかい朝日にたなびく薄雲。絶え間ない鮮烈な緑、ひっそりと色づき始めた木々。うつむく向日葵、空を見上げる秋桜。まだ手放せない半袖Tシャツ、エアコンのいらない夜。
季節はゆっくりと、しかし着実に進んでいる。
まだまだ眩しく照りつける太陽光の下、秋の気配を求めて散歩をする。
いつものお散歩コース。しかしゆっくりと飛ぶスズメバチを目撃し、戦略的撤退をおこなった。その後に選んだ別の道で、黄金色に揺れる田園を眺めた。額から汗が噴き出る一方で、秋はちゃんと今ここに来ている。
夏と秋の狭間。
道すがら、枯れゆきながらもまだ青空に向かって立っている向日葵を撮ったとき、私は死して固く重くなった母の体を思い出した。そうか。この星に生きる限り、死もまた重力と無関係ではいられないのか。
色褪せて散っていく花びらも、木とその手を離した葉も、向かうのは地。勇壮な大木もひとたび倒れれば、ゆっくりと朽ちて土に還っていく。最期を見つめようとするとき、視線はいつも下を向いていた。
大切なペットが亡くなったとき、それは「虹の橋を渡った」と表現される。亡くなった人は星となって私たちを見守っていると言われることがある。お墓にいるのではなく風になっていると歌われもする。
母を思い起こすとき、私はたいてい空を見上げていた。
重力は命にかかる制約だ。鳥のように翼を持っていたとしても、永遠に空を飛び回れるわけではない。翼が傷つけばそもそも飛べなくなってしまう。その重力にがんじがらめの肉体自体も制約だ。人間で言えば、生まれてからたかだか二十年ほどを超えてしまえば、あとはただ衰えていく運命にある。
死は重力からの解放。地に肉体という軛を置いて、生まれた瞬間に背負わされたものも捨てて、生きてきた道中で抱えた痛みも脱ぎ去って、魂は空に昇る。
だとすれば、すべての命を始めから終わりまで縛る重力があればこそ、魂の行く先や死後の安寧を天の上に求める発想が生まれたのだろうか。逆に死してなお重力に支配される世界として、地の下奥深くに地獄が描かれたのだろうか。
家に帰り、昼ごはんの準備をする。鮭を焼き、レンジでさつまいもを加熱する。しめじとたまねぎを炒めてから小麦粉を振りかけ、牛乳を流し込んでホワイトソースも作った。これらすべてを耐熱皿に詰め込み、とろけるチーズを乗せてオーブンに入れたら、秋の味覚で彩られたグラタンのできあがり。
生まれながらに、または生きてきた道すがらに背負ってしまったものたちは、おいしいごはんを食べているときと、深く眠っているあいだは脇に置いておける。たとえ地の下ではなく今目の前に広がる地平こそが地獄だとしか思えないとしても。
この命が魂だけになったら、おいしいごはんを食べられるのだろうか。食事は身体を動かすための動力源だから、魂だけになったら必要とすらしないか。だったら今のうちにおいしいものを食べておくか。
冷凍庫から期間限定フレーバーのアイスを取り出す。MOWの紅はるか。近所のスーパーに行くたびに買い込んでいる。そういえば、品薄でまったく買えずにいた白米をようやく入手できた。念願の白米は今年収穫されたばかりの新米だ。最初の一杯はいっそ、小さな釜で丁寧に炊こうかな。
ただ生きている。
ただごはんを食べて眠って、その繰り返し。
救いなんて、案外そのぐらいのところにあるのかもしれない。
*
毎月一本、写真noteをお届けしています。
マガジンはこちら↓
月報
職務の内容が向いていたとしても、週五日のルーティンワークを続けるのはどうやら無理だ。あっという間に精神が病んでしまう。居酒屋勤務時代にこれができたのは、忙しいときにアドレナリンがどばどば出る感覚によって麻痺していただけなんだろう。こういうのはある種の中毒らしい。怖いもんだね。とにかく今月でルーティンワークは終わり。少しは気が楽になるはず。
ダイアンの津田さんにスーではなく花束を差し上げられる夢を見た。せっかくならスーが欲しかったなと思った。いつもないものねだり。花束をもらうなんて素敵な夢じゃないか。
今月のプレイリスト
畢生よ / 初音ミク(カンザキイオリ)
melt / SennaRin
sabotage / 緑黄色社会
良いんですか?ではありがたく頂戴いたします。