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それでもココアはやっぱり(#文脈メシ妄想選手権 参加作品)

「最寄り駅」を名乗っているわりに、まったく「最寄っていない」ことがある。

通っていた高校の最寄り駅は、徒歩で三十分かかる場所にあった。

ほとんどの生徒は駅と学校間の道のりに自転車を使う。だが私は、小学生の頃に挫折したおかげで自転車に乗れない人間で、だから三十分の道のりを毎日一人で歩いた。のちにバスが通っていると知った頃には、すでに歩き慣れてしまっていた。


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「寒ぃ~」

肩を震わせながら、少し先を歩く彼が言う。私は、ホント寒いね、とか何とか返しながら、その斜め後をついていく。

三十分の道のりが一人じゃないことすら珍しいのに、一緒に歩く相手が想いを寄せているクラスメイトだなんてことは、さらに珍しい。

二月も半ば、その日の帰り道には、足首まで埋まるほど雪が積もっていた。彼はいつも自転車を使っているけれど、その日は朝から雪が降っていたから、さすがに諦めたらしい。

それに加え、期末試験が目前に迫っていた。私のいた高校は、試験まで残り一週間になるとすべての部活動を休みにする。だから、ある文化部に所属する彼と帰宅部である私の帰りが重なるのは、試験前ぐらいしかなかった。

「帰ったらゲームざんまいだな」
「いや勉強は?!」

これは偶然の重なりが生み出した幸運。

誰かが作った足跡に自分の足をうまくはめ込みながら歩く。たまに吹きつける風に髪が乱され、慌てて手ぐしで整える。心は浮ついていたけれど、滑って転ぶなんて醜態を晒したくなくて、過剰なぐらい足裏に力が入った。

「あれ、もしかして乗り遅れたんじゃね?」

一台の石油ストーブが焚かれた駅舎に入る。帰途につく学生だらけのはずのそこには、人影がない。携帯電話が示す時間と時刻表を交互に見て、私たちはほんの数分前に電車が行ってしまったことを知った。

次の電車が来るまで一時間ある。かと言って、ここはすぐ近くに暇を潰せるマクドナルドがあるような都会ではない。「マジかよ~」と落胆する彼が石油ストーブの前のベンチに座ったので、私も座る。

私たちは大人しく駅舎で待つほかなかったが、この日ばかりは、それすら幸運に思えた。

「あったかいもんでも飲むか~」

ベンチのすぐ隣にある自販機をみつめて、彼が立ち上がる。自販機の前に立ったその背中をぼうっと眺めた。一枚ずつ小銭を入れる音がして、自販機の前面を人差し指が泳ぎ、これだと決めたボタンを押し込む。ガコン。しゃがんで取り出し口に手を入れる。振り返った彼の手には、コーンポタージュの黄色い缶が握られていた。

「何か飲む?好きなの選んでいいよ」
「え?」
「行きも帰りも歩いたからさ、親にもらったバス代が浮いたんだよね」

コーンポタージュの缶を振りながら彼は言う。じゃあ、ありがたくいただきます。私も立ち上がって、自販機の前へ。何にしようかな。コーンポタージュもいいけれど、今は甘いのがいいな。

あたたかくて甘い飲み物は、どうやらココアしかないようだ。一番右下にあったそれに目を留めていると、彼が一番左下を指差す。

「ココアならこっちのほうがおいしいよ。そっちはあんまり甘くない」

そうなの、じゃあこっちにする。ボタンを押し込むと、ガコン、と茶色い缶が落ちてくる。それはバンホーテンのホットミルクココア。軽く振りながら再びベンチに座り、プルタブを開ける。ゆっくり一口。たったそれだけで、喉から足先にいたるまでその甘さが染み渡っていくようだ。

そういえば、ココアなんて飲んだことあったかな。

「甘いっしょ?」
「うん、甘い」

みつめられたら、そう一言頷くだけで精一杯だった。そんなこちらの気も知らず、彼は得意げに「ココアはバンホーテンが一番」と豪語する。

甘い物好きの彼がバンホーテンを推すなら、それはきっと正しいんだろうと思う。だって私は、ココア味のクッキーを食べたことはあるけれど、飲み物としてココアを味わったのは初めてだから。

「おいしい…ありがとね」
「いえいえ~」

そうやって彼の色に染まりながら、その優しさにつけこんで、縋りついてしまいたかった。

自分のお小遣いを犠牲にするわけでもないのに、彼がバスを使わなかったのはなぜだろう――いやいや、ただの気まぐれに決まっている。どれほどその肩に寄りかかりたくとも、変にのめりこんだあげくに傷つくのは怖い。

「あ、代わりに勉強教えてよ。俺、テスト勉強一切してないからさ!」
「…マジ?」

ほら、君はいつもそう。気まぐれに優しくしてくれるけど、そのまま期待しきることを許してはくれない。現実はきっと、このココアほど甘くないのだ。

笑いながら彼が開いた教科書は、驚きの白さで輝いている。私は三両編成の電車がホームにやって来るまで、ほとんどゼロから英語を教える羽目になった。結局のところ、つけこまれているのは私なんだろうか?


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雪は解け、桜が散り、向日葵がうなだれ、樹は裸になり、また雪が降る。


――チャリッ、ピッ、ガコン。

冷え切った手で茶色い缶を包むように持ち、暖を取る。駅舎に入った瞬間、二両編成の電車が走り出すのを見てしまった。最悪の気分だ。しょうがないから、石油ストーブの前のベンチに座る。

脳内で彼の横顔と、あの子の笑顔がちらつく。独り、首を振る。プルタブを開け、ココアを一気に流し込む。それでも、憂鬱を踏みしめた足がなかなかあたたまってくれない。

バンホーテンの、その甘さだけを知っていたかった。
桜の咲かない卒業式が、もうすぐやってくる。






  

   

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千鶴
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