紅い月がのぼる塔/21.檻の中
「離せ、どうする気だよ。ここは嫌いだ」
モリは首根っこを強く掴まれ、兄と共に塔の外れにある湿気た通路を下っていた。
カビの臭気が鼻をつくここは、緩やかな坂が続く半地下。低い天井近くに連なる換気口からは、わずかな光と土の匂いを含む冷えた空気が流れていた。
「覚えているか?おれたちが初めて繋がれた場所だ。おまえは酷く怯えていたが、おれにとっては、あの <厩> に比べたら天国のような場所だった」
忘れる訳がない。モリは行き止まりにある檻を凝視し、込み上げる嘔吐感に胸が詰まった。
「あの時のままか」
苦笑混じりに呟いたレンは、鉄格子の先にある不自然な寝具を確認した。開いたままの扉には、未だに見覚えのある錠前がぶら下がっている。
「離せよ!」
モリは迫り来る不穏な空気に鳥肌が立つのを感じた。
──おまえの名前は?──
低くかすれた濃厚な囁き。大きく襟の開いた純白のドレス。そこから覗く紅い薔薇。プラチナの髪が揺れるたび、甘苦い麝香の香りが漂う。
「ここは嫌なんだ!」
兄の両腕に爪を立て、絶叫していた。滲む脂汗が額を覆う。
だが、男は無慈悲に追いたてると、弟を檻の中へと突き飛ばした。そして、素早く格子を閉め、錠前をかけた。
「暫くそこにいろ。おまえは邪魔だ」
淡々と冷酷にこぼす兄に、モリは立ち上がりざま食らいついた。鉄格子を両手で掴んでは、冷めた眼差しに向けて咆哮した。
「出せよ!マヤに何かしたら承知しない!」
剥き出しの碧眼に稲妻が走る。久しく目にしなかった真っ直ぐな視線に、レンは刹那、魅了された。
「無能なおまえに何が出来る。あの女が望んだことだ。せいぜいここで枕を噛んでいろ」
格子越しに睨む弟に顔を寄せ、舐めるように見つめた。
「その目だ」口元に笑みが浮かぶ。
「漸く本性を現したな。薄弱のふりをしていたことくらい、おれには分かっていた。おまえを誰よりも見てきたのはこのおれだ。おまえがどんな人間なのか、一番良く知っている」
モリの唇が一文字に引き締まった。兄の漆黒の瞳を見つめ、黒髪の下に潜んだ半顔を見つめた。
「美しいぞ、モリ。だが、おまえはその美しさに気付くべきじゃなかった。おまえは一生ここで、おれに償いながら生きるのだからな」
時を経ても交わらない思い。それも仕方がない。それでも良いと思ってきた。今までは……。モリは震える頭を押し当てて言った。
「兄さんには本当に酷いことをしたと思っている。何もかも変わってしまったのは、ぼくのせいだ。今でもあの時の自分が許せない。その気持ちは嘘じゃない。でも、ぼくはここを出たいんだよ。クロエに飼われるのはもう嫌なんだ。兄さんも出ようよ。まだ償いが必要なら、ここを出ても償うから。だから、今すぐここから逃げよう」
鉄格子に貼りついた弟を、レンは静かに見つめた。その沈黙に誘われ、モリもゆっくりと息を止めた。互いの視線が絡み合う。兄が何を思っているのか、少年は瞳孔の収縮から探ろうとした。
しかし、それを遮るつもりか、男は目を細めて言った。
「おれはここを出ない。おまえを、放すつもりもない」
二人を分かつ壁が落ちた。もう、交わらない。同じ思いになることは二度とないのだと、モリは確信した。
「そんなに」搾り出す声が震える。
「ぼくが、憎いの……」
しかし、レンは何も答えなかった。弟の目尻に滲む涙を見つめ、蔑みもなく目を伏せると、背中を向けた。
「レン!」
「生憎だが、ここの鍵はない。さて、どうやって開けるか。その時まで考えておく」
男は去りながらそれだけを残した。背後に響く弟の声。何度名を呼ばれようと振り返りもせず、淡々と消えて行った。
モリは両拳を叩きつけた。格子が鈍く鳴るだけで、微かに聞こえる波音だけが時を刻む。
二度と見たくない場所だった。この八年間、ここだけは蓋をして避けていた。たった六日ほど居た場所。それなのに……。
モリは振り返った。壁には小さな格子窓。そして、硬くみすぼらしい寝具が一つ。それだけの、暗く殺風景な犬小屋だった。
寝具の前に立ち、兄がいつも背中を向けて横たわっていたのを思い出した。
八年前のあの六日間。あの男は必ず夕刻に現れた。つばのある帽子を被り、不自然な丸い背中を持った小男。彼はレンだけを呼び出し、モリには山羊の乳と一欠けらのパンを残して去って行く。一人残されたモリは、静寂に包まれた暗い檻の中で、兄が戻るのを不安を抑えて待ち続けた。
レンはいつも夜半すぎに戻って来た。黒い靄を背中に纏い、抜け殻になって歩いてくる。
「どこに行ってたの」
弟の問いにも答えない。だが、それはこの時だけではなかった。ここに来てからというもの、口を開くことはめったにない。
レンは無言で寝具に上がり、壁に向いて横たわった。その背中が今も、鮮明に蘇る。
そして、六日目。ついにレンは帰ってこなかった。格子窓から光が射しても、また、再び影が落ちても。
「レン!」
モリは鉄格子から叫び続けた。先の見えない真っ直ぐな通路に響くのは、己の惨めな悲鳴のみ。それさえも、冷たい石壁に呑み込まれて行く。
咽喉がかれた。このまま置き去りにされてしまうのか。たった一人、見知らぬ檻の中で息絶えるに違いない。幼い少年は、恐怖と孤独の筵で震えた。
すると、暗闇の一部に淡い光が漏れた。それは、聞き慣れない硬い足音と共に、揺れながら近づいた。
モリは大きく息を吸うと、鉄格子に身を寄せ、腹の底から叫んだ。
「レン?」
しかし、光に照らされたのは、白いドレスの女だった。六日前、彼らを拾った女……。
彼女はこんな不潔で寂れた場所に似つかわしくない、長いプラチナの髪を持つ貴婦人だった。手にはランタンを携え、静かな微笑みを湛えている。いつもの小男はいない。
モリは怪訝に眉を顰め、檻の中を後退った。
「レンは、どこ……」
女は鍵を開けて侵入した。麝香の甘い香りが饐えた空気を消す。
「おまえの名前は?」
長い指先を優雅に伸ばし、首を竦めるモリに触れた。
モリは圧倒されていた。これほど妖艶で美しい女を見たことがあっただろうか。それと同時に、これほど悪魔的で、訝しい女を。
顔を背ける少年に、女は妖しく目を眇めて微笑んだ。紅い唇から息混じりの囁きが漏れる。
「レンはもう、ここには戻らない」
モリは顔を上げた。息を鋭く呑み、冷たく見つめる女を凝視した。
「おまえの兄はとても可愛いわ。従順な子犬。おまえも私の犬になりなさい」
背筋が震えた。ランタンの明かりが揺れる瞳に感情はない。微笑む唇も、細めた目尻も、奥に潜む冷たさを隠せなかった。
「そう」女は不敵に笑った。強ばるモリに顔を寄せ、低く呟いた。
「おまえはそういう子犬なの。見かけによらず、手のかかる悪犬……」
モリは逃げ出そうとした。だが、女の手が顎を掴み、華奢な肩に爪を立てた。
「名前を言いなさい!」
まるで糸にかかった獲物だった。見えない粘膜に絡め捕らわれ、引き寄せられる。紅い爪が肌に食い込み、顎が今にも砕けそうだった。
「おまえの名は?」
女は繰り返した。抗えない威圧を伴って。
「モ、モリ……」閉じた目尻から涙が零れた。
女の手がわずかに緩んだ。しかし、その柔肌には、深い爪跡が残ったままだった。
「怖がることはないわ。おまえが一番欲しい物、手に入らなかった物をあげる」
モリは恐る恐る目を開けた。女の顔を直視できないまま、心の中で兄の名を呼んだ。
「従順におなり。わたしの、モリ……」
忌まわしい過去の記憶が一瞬にして駆け抜けた。
「消えろ!」
抵抗できなかった自分。身体を突き抜けた痛みと快楽と一緒に、大切な物を失った。
モリはかつての残骸が残る寝具を見つめ、ゆっくりと床に座り込んだ。
兄さん……ぼくはその時、初めて知ったんだ。村の人たちやクロエが、兄さんに何をしていたか……。
サポートをしていただけると嬉しいです。サポートしていただいた資金は資料集めや執筆活動資金にさせていただきます。よろしくお願い申し上げます。