女神の仮面/4.塀の向こう側
「ミオは…?」
屋敷に入る日。玄関先で馬に荷を積んだラカンカは呟いた。
「まだヘソを曲げている」
僕は溜息を零しながら、鞍を確認した。
ラカンカが<同志>になると告げた日、ミオは怒り狂った。
「信じられない、何で<同志>なの…!?一族なんかに仕えて、それが名誉だなんてどうかしてる」
ミオは誰よりも一族に対して敏感だ。
当然と言えば当然。<支配>を知らない彼女にとって、忠誠は無意味だ。
「そんなに言うなよ。ファリニス様は立派な方だったんだ。悪いのはあの<男>だし。それに、俺は師匠(マスター)になりたいんだ。ミオには分かんないだろうけど、俺は…強くなりたいんだよ…」
俯きながら語尾が消えていく兄を、ミオは苛立ちを込めて見つめた。
そして、唇を噛み、大粒の涙を浮かべた。
「好きにすれば!兄さんをあの一族に取られる悔しさは、兄さんには分かんないだろうけど!」
ミオは癇癪と一緒に、ソファに突っ伏した。
あれからというもの、ラカンカと口を利こうとはしない。
「ラカンカの将来の為だ。いい加減、認めてあげなさい」
僕がどんなに間に立っても、彼女は頑なだった。
「そっか…」
ラカンカは残念そうに馬に跨った。
僕だって喜んで弟を送り出す訳じゃない。だけど、まさかミオがここまで頑固とは…。
「兄貴」
しかし、ラカンカはいきなり顔をほころばせ、興奮して言った。
「見て。二階の窓。」
弟に言われるまま、さり気なく振り返った。
そこには、カーテンの陰に身を潜め、顔を覗かせたミオが居た。
見えもしない兄を窓越しに感じようとしているのか。片手をガラスに這わせていた。
「素直になればいいものを…」
吐息混じりに零す僕に、ラカンカは白い歯を剥いて笑った。
「『好きだよ』って伝えておいてよ」
好きだよ…か。
呆れて微笑する傍らで、素直に育ってくれた弟に感謝した。
僕はラカンカの保護者として呼ばれた。
今でこそ、屋敷の敷地に入れる者は滅多にいない。
僕たちは重厚な壁が聳える門塀前で馬を下りた。
「どうぞ、こちらへ」
門兵に導かれるまま、巨大な門を潜る。
全ての大きさが予想を上回っていた。
民の街に燻っている以上、一生目にする事のない華麗な建築物。
威圧すら感じる塀の奥に、こんな美しい屋敷が隠されていたとは。
圧倒された僕たちは、暫く言葉を失っていた。
しかし、それに反して、中庭は酷く雑然としていた。
生い茂っていたはずの木々は枯れ果て、芝生も黄ばんで剥げていた。
手入れすら不可能な荒れ地は、主のいない寂しさを醸しだす。
表の顔と裏の顔。
ここはまさに、世界の縮図だ…。
「みんな兄貴を見てるよ」
ラカンカはそっと囁いた。
謁見の間に向かう道すがら、同志たちが一瞥を向けていた。
「兄貴、目立つから」
弟は自慢を込めて笑う。僕は複雑な気持ちで苦笑した。
謁見の間は静かで冷たく、ぴんと張った厳かな空気に包まれていた。
玉座前でブロジュ様を待つ。
その間、落ち着かない弟は小声で喋り続けた。
「すごい…何か実感が湧いて来た。今日から俺は<同志>になるんだね…」
ラカンカの心は、すでに僕から離れていた。
開かれた前途に夢中になっているんだ…。
扉が開いた。
僕たちはすぐさま身を屈め、頭を垂れた。
「顔を上げよ」
広間に入るなり声掛けをして下さったのは、あのブロジュ様。
凛とした発音が心地良い、温かい声だった。
「良く来たな、ラカンカ」
歩きながら気さくに零したブロジュ様は、僕たちの前に立った。
「立て、立て。堅苦しいのは好かん」
僕は漸く顔を上げ、その慈愛と威厳に満ちた目を見つめた。
これが…ブロジュ様…。
彩られた皺の奥に浮かぶ微笑み。長い銀の毛髪が光を吸い込む。
僕たち兄弟を交互に見つめ、そして、髭を軽く撫でて言った。
「そなたが、兄のオプシディオだな」
「はい…」
ファリニス様亡き後、民を絶望から救ったのは、執政であるこのブロジュ様。
ラカンカでなくとも、畏敬の念を抱く。
「天才かつ美貌の癒し手だと、ここにも噂が届いておるぞ」
ブロジュ様は鼻を鳴らした。
「は…恐縮です」
「そして、数々の功績…なんでも、聖剣士の称号を得たそうじゃな」
僕を興味深く見る。
「それのみならず、弟妹をここまで育てあげたとは…ご苦労であった」
弟が話したのだろう。その言葉には、僕に対する深い労いがあった。
「もったいないお言葉…ありがとうございます…」
胸に熱いものが込み上げた。
まさか、ブロジュ様にこんな言葉をいただけるなんて…。
「ラカンカは類まれなる才能を秘めておる。恐らくは今後、わしの右腕となるだろう。果ては一族の為、本日より<同志>となる事に異論はないか」
心が揺れなかったと言ったら嘘になる。
秘めた闇がチクチクと刺したが、僕はそれを閉じ込めた。
「いえ…」
この方の元なら…。
「弟…ラカンカを、よろしくお願いします」
ブロジュ様の力になれるのなら、異論などあるはずがない。
僕はそう自分に言い聞かせた。
別れを惜しむ間もなかった。
目の前のラカンカは、もう僕のモノじゃない。
でも、これでいいんだ…。
寂しさより喜びが勝った弟は、自信で光り輝いている。
「たまに顔を出すから」
さっそく法衣を纏ったラカンカは、僕に言った。
「師匠(マスター)になったらな」
ちょっとした悪戯で返してやる。
ブロジュ様に頭を下げ、足早に玉座を後にした。
中庭を出て一人きりになった途端、込み上げる寂しさ。
ほんの少し立ち止まり、呼吸を整える。
しかし、誰も居ないはずの空間に他者の気配を感じた。
振り返った先には、人知れず佇む男が居た。
いつから居たんだろう、限りなく存在を消そうとしている。
しかし、空気と一体になるには、あまりにも印象的な姿。
灰色のまだらな髪が端正な鼻筋を際立たせ、僕を一瞥する鋭い瞳が静寂を纏った。
灰色の目…。
「門はあっちだが」
彼は淡々と視線で指し、僕を促した。
もしや…。
決まり悪く頷きながら背を向けた。
ただ一人、異彩を放つ男。彼があの、<灰色の剣士>なのか…?
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