紅い月がのぼる塔/28.最後の欠片
「モリ、レンは……」
「言わないで」
マヤの言葉をモリは一篇の詩を紡ぎだすように遮った。
「分かってるんだよ、マヤ。ぼくたちが同じ方向を見るのは、もう無理なのかもしれないって。ぼくの知る兄さんは、きっとあの厩の出来事と共に死んでしまったんだ……」
苦笑する口元がにわかに泣いた。頬を濡らすものはない。しかし、彼は失くしたものにしがみついていた自分を笑い、それを愁えた。
「彼は救われていたわ。私ではなく、クロエによって」
俯くマヤもまた、静かな微笑みを浮かべていた。震える両手を見つめ、軽くそれを握りしめると、困惑するモリに視線を移した。
「初めて敗北感を味わったの。私には治せない病はないと思ってきたから。その者の鎮めた魂さえ掴めれば、大地に息づく偉大なる生命の力で、全てが癒せると思ってきた。だけど、それは間違いなのかもしれない。結局、私は何も掴めてはいなかった。彼の中に潜むものの正体に気付いていなかったの。それだけじゃないわ。私は治療者として……自分のことすら、分かっていなかった」
モリは、苦悩を瞳に映すマヤを見つめ、彼女の人生すら狂わせてしまったと気付いた。 紅い月がのぼる呪われた城。この塔を覆う混沌とした迷宮の中に、彼女を巻き込んでしまったのだ。
「マヤ、これで最後にするよ。ぼくは出来るだけのことをしてきた。あなたの言う通り、これ以上出来ることはないんだと感じた。だから、ここを出る為にも、兄さんとクロエに会ってくる。マヤはここを出る準備をして。お願い、ぼくを信じて任せて」
彼はそれだけを告げると、マヤを優しく抱き締めた。
「あなたと離れたくない。ぼくに一人で戻れだなんて、そんな残酷なことは言わないで」
彼はもう、弟のモリではないのだ。マヤは目を閉じ、いつになく力強く、指先に愛が満ちた腕を感じた。
「あなたがあの日、ずぶ濡れになっていたのは、クロエに会ったからなのね。そのことを告げに来たのに、私は何も気付かなかった」
彼女は己の非力さにうな垂れた。そんな彼女を少年は更に強く抱き、震える首筋に顔を埋めた。
「マヤはぼくを救った。あなたに会うまで、ぼくは出口のない、暗い絶望の森を彷徨っていた。花の香る木漏れ日の元へ導いたのはあなただ。そのことを忘れないで」
「モリ……」
彼はそう告げると、名残惜しく身を離した。そして、紅潮した頬を隠しながら走り去った。
モリは紅い月の見下ろす夜霧の中を駆けた。もう、クロエから逃げない。決意に答えて、生温かい潮風が音をたてた。
荒地は奇妙な静寂に包まれていた。黒いキャリッジもなく、御者の姿もない。モリは不審に思いながら地下通路を進んだ。松明の火も消えかけ、薄闇と化した石畳を固唾を呑んで歩いた。
扉はわずかに開いていた。ここが無防備に口を開けていることなど、めったにないのに。彼は禁断の扉を押し、徐々に身体を滑り込ませた。
だが、次には思いもよらない光景に唖然と立ち尽くしていた。松明を頭上に掲げ、微かな光を頼りに、地下室を照らし出した。
そこには、何もなかった。あの禍々しい紅い布壁も、薔薇の寝具も、むせかえる花の香りすら消えうせ、がらんと冷えた黒い空間が広がっているだけだった。
「レン!」モリは気配のない暗闇に向かって叫んだ。しかし、それは冷えた石壁に反響して、鼓膜を不快に揺すった。
「どういうことだ……」
黒い布に掻き消された空間を呆然と見つめ、モリは、はたと振り返った。
「マヤ……!」
マヤは塔内を巡り、モリの閑散とした部屋をランタンで照らしていた。数少ない所持品の中から、箱庭を抱える。
これだけは持って行ってやりたい。彼女は足早に部屋を後にし、踊り場で足を止めた。
すると、塔内を渡るあのリュートの調べが、マヤの頭上へと降り落ちた。
「レン……?」
不可解に見上げ、聞き覚えのある旋律に耳を澄ました。
彼は薔薇の褥にいるはず。それが、なぜ。広間へ向けて一気に駆け上った。
そこには、ランタンの恵みと月明かりの中に浮かぶ人影があった。やはり、あれは黒髪の男。椅子に浅く腰かけ、膝に乗せたリュートを軽く流していた。
「レン、いつの間に……」
彼は穏やかな微笑みを浮かべていた。静寂を友にして、甘く物悲しい和音を奏でる。その首には黒革が絡みつき、それさえなければ、薔薇の褥の出来事が夢のようだった。
「クロエが」レンはリュートのネックを見つめたまま、静かに語った。
「この音を聞きたいと言った」
「クロエ?」
マヤは開け放たれたバルコニーを見やった。その露台に立ち、傾いだ紅い月を見つめる女の背中。プラチナの髪が月明かりを呑み、全身に白銀の砂粒が散りばめられていた。
女は小さく頭を動かすと、身を強ばらせるマヤを眇めた。その目尻に宿る冷然とした光が、幻惑した彼女を震え上がらせる。
「ここはわたしの城。かつてここに住まい、この月を眺めた」
クロエは亡者のように振り返り、薔薇の蕾に似た唇を上下に割った。
「わたしの獣たちよ。この犬小屋に踏み入りし者は、二度と出ることを許さない。おまえたちはわたしに飼われた、愚かで愛しい獣。それは、おまえも同じこと。沼地の魔女」
レンは爪弾く指先を止め、漸く顔を上げた。顔色は一転して青白く朽ち、睨めつけるマヤを直視した。
「出て行けと忠告したはずだ。おまえにおれは救えない」
彼は憎悪も嘲笑もない、不可思議な色を浮かべた。それが見えるたび、彼女は不安定な気持ちに苛まれた。だが、瞳の奥に揺れる小さな魂が、彼女を治療者へと導く。
「あなたは治療でわずかに変わった。だけど、あなた自身が呪縛からの解放を心から望んではいなかった。その傷を失うことに怯えていたからよ。あなたは束縛を望んだ。心以上の痛みを与える束縛でなければ、愛を感じることが出来くなっていた。あなたを救うのは薬《レメディ》でも私でもない。身を滅ぼすほどの愛だけが、あなたを救うんだわ」
「レン、わたしを見なさい」
低く、深く、海底をさらう囁きが、マヤの言葉を遮った。男は土色にくすんだ肌に安堵の笑みを浮かべ、クロエの凍った微笑を見つめ返した。しかし、マヤは構わず続けた。
「レン、あなたが本当に愛しているのは……」
「マヤ!」
広間に駆け込んだのはモリだった。息をきらせ、狼狽しながら、闇夜に集う者たちを見回す。
「クロエがどうしてここに……」
モリは囚われた兄の姿を見つめ、そして、忌まわしく微笑むクロエを凝視した。
女は少年の見違えるほど生命力溢れる躍動を笑い、感動に似た震えを放った。
「素晴らしい。まさに、さなぎから孵った蝶。これこそ、わたしの望む飼い犬」
片手を伸ばし、指先で曲線を描きながら、妖しく手招きをした。
「ここへおいで。わたしのモリ」
マヤは少年の腕を即座に掴み、女の抗えない魔力から意識を離した。
「モリ、おまえは邪魔だ。向こうへ行け」
目を細めて吐き出す兄に、モリは頑なに首を振った。
「嫌だよ。ぼくはもうクロエから逃げない。何があろうと自分の意思で、ここから出てみせる。レン、ぼくは行くよ。でも、最後にもう一度言いたかったんだ。兄さん、一緒にここから出ようよ」
「世迷いごとを」クロエは笑った。
「生きる術を知らないおまえたちは、ここを出て生きてはいけない。外界に渦巻く闇の中で、うちひしがれる姿が目に浮かぶ。おいで、モリ。手のかかる子犬ほど、躾甲斐があるというもの。さあ、わたしの元へ」
レンに光はなかった。弟を凝視する瞳は冷ややかに曇り、無言で唇を引き締めた。
「兄さん……」
これで本当に終わってしまうのか。どうすれば兄の気持ちを変えることが出来る。モリは一片の希望を掴むように、兄にすがった。
「ここに何があるの。ぼくには残酷な鎖しか見えない。ぼくが憎いなら憎めばいい。でも、ぼくの知らない何かがあるなら、教えてよ!」
彼は全身で叫んでいた。兄に対する愛が欠片も失われていないのだと、苦しいほど思い知らされた。だが、レンはうわ言のごとく返した。
「クロエがおれを絶望から救い、愛を与えてくれた。おれは、そんなクロエを愛している。クロエもおれを……」
「嘘だ。クロエは兄さんを愛してはいない」
モリはほくそ笑むクロエを牽制しながら、苦し紛れに呟いた。女は楽しんでいる。兄弟の間に広がり続ける溝を眺め、その行方を笑っているのだ。まるで、檻の中の獣を覗くように。
「クロエは、ぼくに会ったことを兄さんに話してない」
例え兄に殺されることになっても、クロエに飼われたりはしない。モリは汗ばむ両手を握り、奥歯を噛んだ。
レンは眉を顰め、威嚇する猛獣と化した。それは悲しくなるほど殺伐とした視線。しかし、モリは怯む気持ちを奮い立たせて言った。
「望月でも朔でもない。クロエは突然現れ、ぼくに忠告した」
声が震えた。口にした以上、もう戻れない。
「なぜ、クロエが……おまえに」
レンは立ち上がった。怪訝にモリだけを見つめ、黒く渦巻く己の内を力の限り静めた。
「ぼくと、クロエには」
モリは貫く視線から目を逸らさなかった。そして、とうとう意を決して言った。
「兄さんの知らない、 <秘密> があるから……」
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