女神の仮面/7.傷ついた鳥

あの夜は、再び灯る松明の炎で始まった。
ブロジュ様がここに辿り着いて二日後の事だ。
僕たちは予想もつかない来訪者に、地下の扉前で固唾を呑んだ。
「この<道>を知る者は限られている」
唇を引き締めたブロジュ様は、期待と不安で複雑な顔をした。
長い間だった。
口を開く者はなく、ミオも階段で膝を抱えていた。
今度もラカンカではないという。
それなら、誰なんだ…。
待ちきれず業を煮やした頃、扉が閃光を放った。
厚い鉄板が揺れ動き、甲高く奇妙な軋みを上げた。
身構える僕たちの前に立ち塞がっていたのは、思いもよらない人物。
灰色の男だった…。
「バージノイド!」
彼は怪訝に周囲を見回すと、驚嘆したブロジュ様を見て安堵の色を浮かべた。
「ブロジュ…」
全身が黒く煤け、無残に裂けた傷が剥き出しになっている。
まさに戦から生還した勇者。その姿に呑まれ、僕たちは暫し沈黙した。
しかし、彼の発した一言で、緊張感が高まった。
「翔平がいる。手を貸せ」
「翔平…!?」
バージノイドの後ろから、恐怖としか形容のしようがない猛獣が顔を突き出した。
全員が後ろに飛び退いていた。
「安心しろ、仲間だ」
畳みかける男に、僕たちは目を丸くして頷いた。
<抜け道>を塞ぐほどの巨体。白い毛並みに太い四肢。薄闇に光る眼は、海底よりも深い青。
白虎…。初めて目にする美しき獣に、身体の芯が震えた。
それは大人しく身を伏し、うねる背中を持ち上げた。
「翔平…!」
その上には、獣の体毛を掴んだまま、うつ伏せになって意識を失っている者がいた。
真の名を呼ぶ者…。
ブロジュ様は杖を握り直すと「オプシディオ、頼む」と、一瞥した。
抱え上げたバージノイドの腕の中で、その者の顔は土気色にくすんでいた。
一刻を争う危険な状態だ。
「急がなければ…」
どんな相手でも放ってはおけなかった。
それほど、紅く血の色に染まった姿は、凄惨で痛々しかった。
「上へ」一斉に駆け上がった。
煌々と明かりの灯るエントランス。
「ミオ、水を持ってきてくれ」
ソファに横たえながら、手短に言った。
篝火の下、僕は初めて<真の名を呼ぶ者>を正視した。
これが…翔平さま…。
胸と腿に大きな掻き傷があった。額には黒く固まった血糊。
全身に怪我を負い、漏れる吐息は微かだった。
しかし、それ以上に僕を驚かせたのは、彼がとても若く華奢な青年だった事だ。
長い手足。乱れた漆黒の髪。
汚れているにも拘わらず、異国の匂いを漂わせた、繊細で魅惑的な顔立ち。
こんなに、小さく美しい若者が…真の名を呼ぶ者…。
信じられなかった。いや、信じたくはなかった。
これが、絶対的権力者の姿とは…。
もっと、もっと…憎む対象に足る人間であって欲しい。
力強く、醜く…もっと…。
両掌で体中を撫でた。
癒しの波動に答え、翔平さまの指先が僅かに動く。
彼の身に何があったのか…。
身体の傷よりも深い心の傷が、彼の生命力を奪っていた。
初めてだった。
掌から伝わる感情。彼が伝えているのか、僕が感じ取っているのか。
翔平という青年は、心の奥底で泣いていた…。
「もう大丈夫ですよ、僕がいますから」
引き摺られて行く哀しみ。そっと頬を撫でる。
瞼の下で動き続ける眼球。そして、不安そうに眉を顰めた。
「安心して眠りなさい…」
両手で目を覆った。
次第に止まる指先。落ち着く呼吸。
土気色の肌に赤みがさし、漸く眠りに落ちて行った。
それから彼は、三日三晩眠り続けた。
僕は片時も離れることなく、癒しを続けた。
憎んでいたはずの相手…。
長い睫毛に蝋燭の明かりが揺れるたび、復讐するなら今だと感じた。
何度か首元にも手を添えた。
だけど、重荷を抱えた華奢な身体に、力を込めることが出来なかった。
絶対的権力者、真の名を呼ぶ者。
ラカンカの言う通り、本当に君が世界を変えるのなら…。
僕たちの希望になれるのなら、君を救ってみせよう。
例え、憎しみに蓋をしても。
翔平の瞼が小さく痙攣した。大きく息を吸い込む。
漸く訪れた目覚めの予感に、その顔を覗き込んだ。
起きろ、翔平。僕に見せてくれ。君という人間を…。
彼は、ゆっくりと目を開けた。
そこから覗いた瞳は、白目との明暗が際立った、とても澄んだものだった。
君が、翔平…。
僕の身体に、感動に近い震えが走った。
心許なく泳ぐ視線。いったい何を探しているのか。
「どうですか、気分は…」
視線を合わす僕を、彼は不思議そうに凝視した。
静かな瞳の奥に滲む、孤独な翳。
「驚かせてしまったかな」
そうか。これが、君なんだね…。
分かった気がするよ、ラカンカ。何故おまえが、彼を愛するのか。
「まだ夢の中に居るようだね」
もっと僕に見せてくれ。君の、<真の姿>を。
それまでは…。
「僕はオプシディオ。ラカンカの兄であり、癒し手だ」
君を愛する下部でいよう…。


END

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なかはら真斗
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